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甘ちゃんアマチュア探偵団

情報化が模倣犯罪、劇場型犯罪を助長しているなら、犯罪抑止、犯罪摘発も、精度の高い情報がすべて。このブログは、人間通を自負するコピーライター東仙坊が迅速な犯人検挙のために、人間的プロファイリングをするものである。

検証プロファイリング 佐世保小6同級生殺人事件と長野義妹殺人事件の酷似点-11

I wonder if the unhappiness might be calling the unhappy unfortunately (不運にも不幸は不幸を呼ぶのかも)?

東仙坊、便宜上、24歳加害者義姉をヘチャムクレ、24歳被害者義妹をコジュー・ドゥーと呼ぶ。
そして、記述する年齢、職業など具体的なものは、事件発生年当時のものが基軸であることを、お断りしておく。

②コジュー・ドゥーがヘチャムクレと同居するまでのプロセスとそのバックグラウンド

●1983年、事件現場近くの父親の実家で出生。父親は町役場の職員、母親は保健師。
そして、少女として最も多感な14歳の時、父親が世間体の極めて悪い死に方で急死。何と愛人宅で心筋梗塞、その愛人がその亡骸を自宅玄関に棄てて行ったのを残酷にも母親が発見。
それで、仕方なく生を奪われることになる長野県諏訪郡富士見町の事件現場の家に引っ越し。
これが、のんびりした山間の町でどのようなネガティブ波及効果があるか、誰もが想像できるはず。
口さがない普通のヒトたちが、いろいろな尾ひれをつけ、隣の芝生は真っ黒とばかりに、徹底的に貪り尽くすに決まっている。アフリカのサバンナのハゲワシのように…。
その意味で、屈辱的で自嘲的な立場にされた母親の心中は、肩身の狭くなった思春期の子どもたちの心中は、いかばかりだったか?
ましてや、コジュー・ドゥーは母親の動揺と恥辱をイヤでも感じてしまう“娘”なのである。
何はともあれ、ナイーブな娘では到底理解できない父親の外にも出られなくなるほど恥ずかしい死によって、コジュー・ドゥーも、佐世保事件のジャジャ馬サイコと通じる未成熟さ、視野の狭さ、意固地さ、独りよがりの絶望感を持ってしまったのは当然だと思わないか?
つまり、父親がいたことさえ一日も早く忘れたいほど、それは汚くて迷惑千万な嫌悪の対象でしかなくなり、そうさせてしまった母親への怒りと侮蔑になったはず。きっと母親のように見かけを真面目にしてたって、幸せに何かなれないと、短絡的に思い込んだに違いない。
どちらにしても、母親の味わった辛酸、悔悟、葛藤、忸怩、憤懣は半端なものではなかったはず。
それゆえ、いつのまにか、デリケートな世代だった子どもたち全員、いつも母親のそっと顔色を窺い、自己主張をためらい、卑屈なイジケ虫になっていったと思わないか?
そして、それをハンデと思い込んでしまった母親は母親で、必要以上に子どもたちに気を使い、すっかり遠慮するようになってしまったと思わないか?

一家の近所付き合いが、自然に減少。

●2000年、地元県立高校卒業後、専門学校(次兄やヘチャムクレと同じ長野市の福祉専門学校?と思うが確証がない)に入学するも中退、スーパーに就職。
と同時に、高校3年生の時から付き合っていたteddy boy(スカタン)と同棲。
やけくその不釣合いな浪費生活(これが世間の顰蹙を買い、悪者にされる原因?それって、単なる妬みでは?)
父親の保険金の一部の1000万円を、そのスカタンにアフリカのサバンナのチーターのように嬲(なぶ)り尽くされたという。
それでも、このコジュー・ドゥーは青あざを作り、DVの限りを受けてもじっと我慢してたという。もちろん、これはこれで未熟で無知で浅はかな乙女心でしかない。
でも、母親の精神的苦痛や敗北感を感じてたからこそ、それを反面教師に、公務員だった父親とは真逆の一見粗野で自堕落でお調子者のスカタンを選び、コジュー・ドゥーはそれなりのバカなプライド、自己陶酔的反抗を見せただけでは?

事実、次兄は、高3の妹の喫煙を注意した際、その妹のスカタン彼氏に脅かされ、それがトラウマ。
本当に情けなくてみっともない兄貴だと思わないか?
そして、母親はそんな娘のひたむきな一途さに、スカタンにも係わらず結婚までを提案(?)。

●2001年5月、何と次兄と同じ福祉専門学校生(?)だった長兄(21歳)が、金沢からのドライブ帰りに対向車線にはみだし、11tトラックと魚津市内で正面衝突し、全身打撲で交通事故死
これが、またまた母親に、残された兄妹にどれだけのダメージを与えたか、想像に難くない。
これを何と悲劇的な不運と捉えるのか、そんな残酷なことがあっていいわけがないと捉えるのか、もしや自殺?と捉えるかで、世の中の見方が大きく変わると思うが、どうだろう?
どちらにしても、最低な父親の死後、大黒柱にと期待していた母親の心中は、父親代わりと思っていたコジュー・ドゥーの心中は、さすがの東仙坊でも、これ以上言及したくないが、佐世保事件のジャジャ馬サイコの父親が脳梗塞で倒れたことにどこか似ていると思わないか?


●2006年2月、スカタン彼氏の一向によくなる兆しのなさを、見るに見かねた母親の強い進言をコジュー・ドゥーがようやく受諾。そのスカタンと別離。
どんな経過であれ、次兄に子どもが生まれ、母親に初孫ができ、何らかの新たな生きる希望が生まれたことだけは確かかも知れない。だからこそ、久し振りに、母親本来の生真面目で融通の利かない頑固な性格に準じた、積極的な行動が取れたのである。
卑屈極まりなく遠慮がちだった母親が、次兄の嫁と初孫の出現で、ようやく世間体や体面を普通に気にし始めたんだと思わないか?
一方、コジュー・ドゥーはコジュー・ドゥーで、言われているようにもちろん嫉妬や羨望が次兄夫婦に多少あったとしても、それが間違いなく大きな刺激となって、もう一度人生をやり直そうと本気で考え始めたに違いない。
そう考えるのが普通だと思うが、どうだろう?東仙坊の見方が甘いのか?
仮にコジュー・ドゥーに対して言われている、非難や中傷が全部本当だったとしても、あれだけのイヤガラセを実際にできる、そんな元気な人間(?)って、世界中探してみてもあんまり見つからないと思うが、どうだろう?
1人の人間が、素直に自省し、謙虚に自分で努力しようとし始めた時、その自信のなさ、当惑、試行錯誤、失敗の恐怖は、自然に他者の支援、助言、示唆、理解を求めるようになるはず。
そして、なかなかそんな人が見つからなかったり、それが全然いないと性急に思い込むと、全てを他者のせいにして、さらなる自分の努力を怠ってしまいがちになるものでは?
そう、もともと人間とは弱い存在。
誰も1人では生きられない。だから、誰かを探し続けている。
成長するためには、周りに成熟した誰か他者が絶対不可欠だと知っているからである。
ところが、高慢でジコマンなヒトは周りが見えないから、容易には見つからない。
そうすると、狡猾に、「世の中ロクなヤツがいない」「アイツが悪い」と、どこか頭の片隅で、いつも言い訳や責任転嫁を用意し始める。
その意味で、有無を言わさず諌めてくれる、何があっても支えてくれる親、兄弟が大事になる。
せっかく24歳で再出発しようとし始めたコジュー・ドゥーにとって、唯一無二サポートしてくれそうな次兄が、あまりにもヘナチョコだったことが、一番不幸の原因だったかも知れない。
ヘナチョコ次兄自身も、未熟で無知で一人前の男になっていないのだから、次兄の責任を全く果たせないのも、当然といえば当然かも…。
あの佐世保事件のジャジャ馬サイコの父親と全く同じな気がしないか?
極論すれば、ヘチャムクレとヘナチョコが子どもを作ったこと自体が、すでに問題。
その意味で、2人の長女がとても哀れで仕方がない。
そして、長女の未来がとても心配だと思わないか?


●2006年12月、コジュー・ドゥーが、事件現場になる実家に戻り、ヘチャムクレとの同居開始。




I don’t know how this murderer took care of her baby at all(この殺人鬼が子育てをどう考えていたか全くわからない)!

to be continued…



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東仙坊 tohsenboh.jp
コピーライター歴三十有余年。人間通の東仙坊が、人間の弱気と恥ずかしい業が生む、情けなくてみっともない犯行を、徹底的に追及、究明。

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