彷徨う大和魂-3 「Pepper Lunch」、「非難を浴びるべき軽食」!?-1
I feel the latest criminals is worse than what they were(最近の犯罪は昔より悪い)!
東仙坊、子どものころ、チャンバラ、いわゆる時代劇で、大勢の悪者に囲まれた正義の剣士が、なかなか刀を抜かないことに、いつもヤキモキさせられた。
「早く、早く、刀を抜いて、そんな悪者なんか、バッタバッタと切り殺しちゃえ!」
心の中でいつも叫んでいた。
なのに、なぜか正義の剣士はすばやく素手で身を交わしているばかり。
「何やってるんだよ。遅いよ。遅い。やられたらどうするの? 悪者たちは殺そうとして切りつけてんだぞ」
凄くイライラさせられていた。
そのうち、やっとのことで正義の剣士が刀を抜く。
「いいぞ。やっつけろ! パチパチパチ」
心の中で手を叩いた。
すると、その正義の剣士は、必ず抜いた刀をゆっくりと裏返す。
そして、それからようやくチャンチャンバラバラになる。
ところが、悪者はいくらやられても、死なない。
当たり前である。
いわゆる「峰打ち」、刀の背で打つだけだから、悪者が簡単に死ぬわけがない。
こうして、正義の剣士という者は、その「ノーブレス・オブリージュ」、「魂の高潔さ」から、悪者にさえも慈悲を与えなければならないのだと学んだ気がする…。
そして、東仙坊、生まれて初めて訪れた宗主国のL.Aで、いわゆる西部劇で観るガンマンのように、拳銃があるのに拳と拳でわざわざ殴り合う国と信じていたのに、くだらないことでビール瓶でいきなり殴られ、その場で惨めにのばされた。
「ウソー、話が違うよ。あんな大きな体のヤツが、こんな小さな人間を素手ではなく殴るなんて…卑怯者…」
声を出して女々しく呟かされていた。
そうして、宗主国のヤツというものは、その「無知蒙昧さ」「ナリフリ構わなさ」から、ケンカするときは徹底的に相手の弱点を殴るのだと学んだ気がする…。
人間生きている限り、学び続けるもの。
そうこうしているうちに、少しずつ成熟し、自分が少しでも人間らしく、自分の中にある魂の声に従い、「もののあわれ」、「思いやり」、「儚さ」を大切にしながら、清廉潔白に生きようとするはず。
それなのに、それなのに、どうしてここまでモラル崩壊社会になってしまったのか?
どうやら、もともと高いモラルを誇っていた我々日本人が、いつからか、急速に「自分の欲望のままの」「何でもありの」、「弱者を選んで苛める」情けなくてみっともないクソッタレになり下がってしまったことだけは、間違いない…。
東仙坊、どこか犯罪のテイストが、何年か前の宗主国の、希望も夢も教養もなく、刹那的に開き直ったストリート・ギャングに瓜二つになってきている気がしているのだが…。
それは、昔だって卑怯で卑劣な犯罪があったのは当たり前。
それでも、今のような相手の命や気持ちを微塵も考慮しない、残忍無比で慈悲のカケラも感じない犯罪はなかったのでは?
なぜなら、地獄で恐い思いをしたくない、閻魔大王にいいように弄ばれたくないという気持ちがどこかに残っていたはずだから?
本来の我々日本人の精神性は、その人への思いやり、自然へのいたわり、モノゴトへの達観、自分の中に神を持ったごとくの魂の高潔さから、もののあわれ、儚さ、ペーソス、人生の哀感を受け入れ、何より恥やサモシサを嫌い、「和をもって貴しとなす」と、絶妙なバランス感覚を持っていたのでは?
そこから、何もかもを川の流れのように悟り、せめて死んだときぐらいは、極楽浄土でのんびり過ごしたいと心から念じたところがあったのでは?
それゆえ、自分のこと以上に人に心配りや気配りをし、世界一の美しきお人好しであったのでは?
にもかかわらず、自分の命の大切さを感じないばかりか、人の命までをも軽んじるような、お天道様に顔向けできないヒトが何と増えてしまったことか…。
豊かな感受性と繊細さを持つ、数少ない本物の日本人たちが、毎日毎日、暗澹たる思いをしているのでは?
そんな中で、本当にこれがあの日本人が犯した犯罪なのか?
そう叫ばずにはいられない象徴的な事件がある。
まさに、日本人の精神性では絶対に考えられない、脂ぎった肉食獣(?)が起こした典型的現代版犯罪と言っても過言ではない気がする。
■大阪ミナミ「ペッパーランチ」拉致・強盗・強姦・逮捕監禁致傷事件
実は、この事件には、現代のモラル崩壊の実態を象徴するだけではなく、現代日本の社会構造そのものを否定するほどの重大な要因が含まれている。
その点を抜きにして、この事件をプロファイリングすることはできない。
とりわけ、事件発生時、東仙坊、本業で、小売業のある飲食チェーン店広告の仕事の真っ最中だったので、青天の霹靂であっただけでなく、自分の提案を一から見直す必要に迫られるほど極めて衝撃的だった。
そのころ、小売業では、「カスタマー・オリエンテッド(顧客最優先)」、「カスタマー・サティスファクション(顧客満足)」、「カスタマー・セントリック(顧客中心主義)」とカーレンシィーが拡充し、徹底した「お客様は神様」の具現化、差別化されるサービスの向上、希少付加価値の供与、そのための従業員教育によるモラルとモラールの高揚での「ワン・トゥー・ワン・マーケティング」の構築に、それぞれの企業が躍起になっていた。
中でも、飲食業界では、産地偽装問題が噴出以来、「のれんを守る」ための確固たる「ブランディング」の構築にどの企業も血眼になっていた。
簡単に言うと、気分のいい笑顔で、きめ細かなサービスをできる従業員の応対によって、少しでも大勢の顧客の強い信頼を獲得しようと、ほとんどの企業が懸命になっていた。
それしか、「メガ・コンペティション(大競合)」の時代の不況下で、小売業、特に飲食業の生き残る道はなかったからだった。
ところが、それが完璧でなかったことを、それが不可能な夢でしかなかったことを一気に証明し、そして我々が考える基本的スキームが根底から瓦解したのが、この事件だった。
そのせいで、そんなものがあるわけがないのに、急遽、クライアントに新たなパラダイムを提案する必要に迫られ、東仙坊、難渋したことで、逆恨みしたところもあった。
どちらにしても、この事件の発生が、小売業界に、飲食業界にそのぐらいのインパクトを与えたことも事実で、業界全体としてこの問題を少しでも早く沈静化させたがった。
しかも、2005年6月「新規業態開発部門」農林水産大臣賞を受賞し、破竹の勢いで店舗展開していた
フランチャイズ・チェーン、「ペッパーランチ」の従業員が起こした事件だったから余計だった。
その最大の問題は、いみじくも大阪地裁の判決で杉田宗久裁判長が端的に指摘し断罪したように、「良質なサービスを提供する場にあり、場合によっては保護することさえある、誰でも安心して入ることができる飲食チェーン店スタッフの立場で、あろうことかその立場を利用し、1人で来店し食事中の女性を店内で襲うという、言葉にするのもはばかられるほど陰湿、執拗で猟奇的な、前代未聞の衝撃的な犯行…。そのような飲食チェーン店で襲われた女性の恐怖、不安、屈辱は察するにあまりある。この事件が社会に与えた不安と影響は大きい」ということだった。
まさにその通りだった。
そうでなくとも、売り上げが低迷していた小売業界で、それによって、世の中に業界全体への負のベクトルが心因的に向かってしまうことを、どの小売業も恐れていた。
「ペッパーランチ」がたった13年で世界に200店舗以上展開していた飲食チェーン店(現在、さらに増加し世界230店舗以上、本当にお人好し日本をここでも証明している?)であったということは、実に由々しき大問題だった。
その「ペッパーランチ」が、当然のごとく絶対的に良質なサービスと安心と安全を顧客に提供する社会的責任を担っていたはずだった。
つまり、「自分たちは、暴力バー、ぼったくりバー、レイプ・ショップではない」と、「ペッパーランチ」は世間に誓約していたも同然だった。
それを裏切ったということは、「ペッパーランチ」が「社会から抹殺されていい」と公言したということでもあった。
そして、それは、「ペッパーランチ」なる新参者によって、「あきない…自分たちも飽きずに顧客を飽きさせず」をして、「儲ける…信者を増やす」ためにコツコツ仕事をするしかない小売業、飲食業全体の存在理由を木端微塵に消滅させられてしまったということでもあった。
逆に言えば、これだけ人材育成、従業員教育が問われている時代に、小売業、飲食業の中でそんな社員を雇っていた企業があったということは、業界内への重大な警告にもなってしまっていた。
いくらそちら側の立場になって広告作りをしていた東仙坊でも、こういう事件が起きることを予測できていなかったから、余計、茫然自失していた。
そもそも、小売業、特に飲食業は、最初から最後まで顧客の意思に全てを委ねなければならないという運命を持っている。
「service(サービス)」という言葉が暗示している通り、あたかも「slave(奴隷)」や「servant(召使)」のように、顧客が喜ぶサービスをこれでもかこれでもかとオシゲもなく与え続けなければ、顧客は店に入ってさえくれないし、2度と来店してくれることもないからである。
それゆえ、圧倒的に顧客がアドバンテージを持っている。
実際、クラブやバーやスナックなどでは、毎晩のように傍若無人に振る舞う顧客に地団太を踏ませられている従業員は大勢いるはず。
しかし、その逆は、絶対的なタブー。
忍の一文字…。
「アンタには買ってもらいたくない」、「キサマには食わしたくない」などとノドから出かかっても、必死でガマンするしかない。
卑屈だとかいう問題ではなく、サービス業の宿命としか言いようがない。
それはミシュランの3ツ星がついていたって、全く同じ。
どこまでいっても、お客様は神様なのである…。
どうあれ、この事件は、その絶対的タブーを破った最初のものと言えた。
たった2人の突出したクソッタレによって、小売業界、飲食業界全体の基盤そのものが崩壊させられたと言っても過言ではなかった。
I tought this case disturbed retail industry, the taboo of the eating and drinking industry(この事件は小売業界、飲食業界のタブーを壊した)!
To be continued…
東仙坊、子どものころ、チャンバラ、いわゆる時代劇で、大勢の悪者に囲まれた正義の剣士が、なかなか刀を抜かないことに、いつもヤキモキさせられた。
「早く、早く、刀を抜いて、そんな悪者なんか、バッタバッタと切り殺しちゃえ!」
心の中でいつも叫んでいた。
なのに、なぜか正義の剣士はすばやく素手で身を交わしているばかり。
「何やってるんだよ。遅いよ。遅い。やられたらどうするの? 悪者たちは殺そうとして切りつけてんだぞ」
凄くイライラさせられていた。
そのうち、やっとのことで正義の剣士が刀を抜く。
「いいぞ。やっつけろ! パチパチパチ」
心の中で手を叩いた。
すると、その正義の剣士は、必ず抜いた刀をゆっくりと裏返す。
そして、それからようやくチャンチャンバラバラになる。
ところが、悪者はいくらやられても、死なない。
当たり前である。
いわゆる「峰打ち」、刀の背で打つだけだから、悪者が簡単に死ぬわけがない。
こうして、正義の剣士という者は、その「ノーブレス・オブリージュ」、「魂の高潔さ」から、悪者にさえも慈悲を与えなければならないのだと学んだ気がする…。
そして、東仙坊、生まれて初めて訪れた宗主国のL.Aで、いわゆる西部劇で観るガンマンのように、拳銃があるのに拳と拳でわざわざ殴り合う国と信じていたのに、くだらないことでビール瓶でいきなり殴られ、その場で惨めにのばされた。
「ウソー、話が違うよ。あんな大きな体のヤツが、こんな小さな人間を素手ではなく殴るなんて…卑怯者…」
声を出して女々しく呟かされていた。
そうして、宗主国のヤツというものは、その「無知蒙昧さ」「ナリフリ構わなさ」から、ケンカするときは徹底的に相手の弱点を殴るのだと学んだ気がする…。
人間生きている限り、学び続けるもの。
そうこうしているうちに、少しずつ成熟し、自分が少しでも人間らしく、自分の中にある魂の声に従い、「もののあわれ」、「思いやり」、「儚さ」を大切にしながら、清廉潔白に生きようとするはず。
それなのに、それなのに、どうしてここまでモラル崩壊社会になってしまったのか?
どうやら、もともと高いモラルを誇っていた我々日本人が、いつからか、急速に「自分の欲望のままの」「何でもありの」、「弱者を選んで苛める」情けなくてみっともないクソッタレになり下がってしまったことだけは、間違いない…。
東仙坊、どこか犯罪のテイストが、何年か前の宗主国の、希望も夢も教養もなく、刹那的に開き直ったストリート・ギャングに瓜二つになってきている気がしているのだが…。
それは、昔だって卑怯で卑劣な犯罪があったのは当たり前。
それでも、今のような相手の命や気持ちを微塵も考慮しない、残忍無比で慈悲のカケラも感じない犯罪はなかったのでは?
なぜなら、地獄で恐い思いをしたくない、閻魔大王にいいように弄ばれたくないという気持ちがどこかに残っていたはずだから?
本来の我々日本人の精神性は、その人への思いやり、自然へのいたわり、モノゴトへの達観、自分の中に神を持ったごとくの魂の高潔さから、もののあわれ、儚さ、ペーソス、人生の哀感を受け入れ、何より恥やサモシサを嫌い、「和をもって貴しとなす」と、絶妙なバランス感覚を持っていたのでは?
そこから、何もかもを川の流れのように悟り、せめて死んだときぐらいは、極楽浄土でのんびり過ごしたいと心から念じたところがあったのでは?
それゆえ、自分のこと以上に人に心配りや気配りをし、世界一の美しきお人好しであったのでは?
にもかかわらず、自分の命の大切さを感じないばかりか、人の命までをも軽んじるような、お天道様に顔向けできないヒトが何と増えてしまったことか…。
豊かな感受性と繊細さを持つ、数少ない本物の日本人たちが、毎日毎日、暗澹たる思いをしているのでは?
そんな中で、本当にこれがあの日本人が犯した犯罪なのか?
そう叫ばずにはいられない象徴的な事件がある。
まさに、日本人の精神性では絶対に考えられない、脂ぎった肉食獣(?)が起こした典型的現代版犯罪と言っても過言ではない気がする。
■大阪ミナミ「ペッパーランチ」拉致・強盗・強姦・逮捕監禁致傷事件
実は、この事件には、現代のモラル崩壊の実態を象徴するだけではなく、現代日本の社会構造そのものを否定するほどの重大な要因が含まれている。
その点を抜きにして、この事件をプロファイリングすることはできない。
とりわけ、事件発生時、東仙坊、本業で、小売業のある飲食チェーン店広告の仕事の真っ最中だったので、青天の霹靂であっただけでなく、自分の提案を一から見直す必要に迫られるほど極めて衝撃的だった。
そのころ、小売業では、「カスタマー・オリエンテッド(顧客最優先)」、「カスタマー・サティスファクション(顧客満足)」、「カスタマー・セントリック(顧客中心主義)」とカーレンシィーが拡充し、徹底した「お客様は神様」の具現化、差別化されるサービスの向上、希少付加価値の供与、そのための従業員教育によるモラルとモラールの高揚での「ワン・トゥー・ワン・マーケティング」の構築に、それぞれの企業が躍起になっていた。
中でも、飲食業界では、産地偽装問題が噴出以来、「のれんを守る」ための確固たる「ブランディング」の構築にどの企業も血眼になっていた。
簡単に言うと、気分のいい笑顔で、きめ細かなサービスをできる従業員の応対によって、少しでも大勢の顧客の強い信頼を獲得しようと、ほとんどの企業が懸命になっていた。
それしか、「メガ・コンペティション(大競合)」の時代の不況下で、小売業、特に飲食業の生き残る道はなかったからだった。
ところが、それが完璧でなかったことを、それが不可能な夢でしかなかったことを一気に証明し、そして我々が考える基本的スキームが根底から瓦解したのが、この事件だった。
そのせいで、そんなものがあるわけがないのに、急遽、クライアントに新たなパラダイムを提案する必要に迫られ、東仙坊、難渋したことで、逆恨みしたところもあった。
どちらにしても、この事件の発生が、小売業界に、飲食業界にそのぐらいのインパクトを与えたことも事実で、業界全体としてこの問題を少しでも早く沈静化させたがった。
しかも、2005年6月「新規業態開発部門」農林水産大臣賞を受賞し、破竹の勢いで店舗展開していた
フランチャイズ・チェーン、「ペッパーランチ」の従業員が起こした事件だったから余計だった。
その最大の問題は、いみじくも大阪地裁の判決で杉田宗久裁判長が端的に指摘し断罪したように、「良質なサービスを提供する場にあり、場合によっては保護することさえある、誰でも安心して入ることができる飲食チェーン店スタッフの立場で、あろうことかその立場を利用し、1人で来店し食事中の女性を店内で襲うという、言葉にするのもはばかられるほど陰湿、執拗で猟奇的な、前代未聞の衝撃的な犯行…。そのような飲食チェーン店で襲われた女性の恐怖、不安、屈辱は察するにあまりある。この事件が社会に与えた不安と影響は大きい」ということだった。
まさにその通りだった。
そうでなくとも、売り上げが低迷していた小売業界で、それによって、世の中に業界全体への負のベクトルが心因的に向かってしまうことを、どの小売業も恐れていた。
「ペッパーランチ」がたった13年で世界に200店舗以上展開していた飲食チェーン店(現在、さらに増加し世界230店舗以上、本当にお人好し日本をここでも証明している?)であったということは、実に由々しき大問題だった。
その「ペッパーランチ」が、当然のごとく絶対的に良質なサービスと安心と安全を顧客に提供する社会的責任を担っていたはずだった。
つまり、「自分たちは、暴力バー、ぼったくりバー、レイプ・ショップではない」と、「ペッパーランチ」は世間に誓約していたも同然だった。
それを裏切ったということは、「ペッパーランチ」が「社会から抹殺されていい」と公言したということでもあった。
そして、それは、「ペッパーランチ」なる新参者によって、「あきない…自分たちも飽きずに顧客を飽きさせず」をして、「儲ける…信者を増やす」ためにコツコツ仕事をするしかない小売業、飲食業全体の存在理由を木端微塵に消滅させられてしまったということでもあった。
逆に言えば、これだけ人材育成、従業員教育が問われている時代に、小売業、飲食業の中でそんな社員を雇っていた企業があったということは、業界内への重大な警告にもなってしまっていた。
いくらそちら側の立場になって広告作りをしていた東仙坊でも、こういう事件が起きることを予測できていなかったから、余計、茫然自失していた。
そもそも、小売業、特に飲食業は、最初から最後まで顧客の意思に全てを委ねなければならないという運命を持っている。
「service(サービス)」という言葉が暗示している通り、あたかも「slave(奴隷)」や「servant(召使)」のように、顧客が喜ぶサービスをこれでもかこれでもかとオシゲもなく与え続けなければ、顧客は店に入ってさえくれないし、2度と来店してくれることもないからである。
それゆえ、圧倒的に顧客がアドバンテージを持っている。
実際、クラブやバーやスナックなどでは、毎晩のように傍若無人に振る舞う顧客に地団太を踏ませられている従業員は大勢いるはず。
しかし、その逆は、絶対的なタブー。
忍の一文字…。
「アンタには買ってもらいたくない」、「キサマには食わしたくない」などとノドから出かかっても、必死でガマンするしかない。
卑屈だとかいう問題ではなく、サービス業の宿命としか言いようがない。
それはミシュランの3ツ星がついていたって、全く同じ。
どこまでいっても、お客様は神様なのである…。
どうあれ、この事件は、その絶対的タブーを破った最初のものと言えた。
たった2人の突出したクソッタレによって、小売業界、飲食業界全体の基盤そのものが崩壊させられたと言っても過言ではなかった。
I tought this case disturbed retail industry, the taboo of the eating and drinking industry(この事件は小売業界、飲食業界のタブーを壊した)!
To be continued…