心のブラックホール-15 「forgiveness(寛大な赦し)」あふれる日本人!?
I don't wanna be a liar about the justice abusolutely(絶対に正義に関してウソツキになりたくない)!
春だから、人間らしく希望を持とうと決意している。
だからこそ、どこまでも正直で生きてやると決意してもいる。
長い間、不正直に生きた時期があることへの反省と後悔もあるからである。
その意味で、ブログを始めたことは、大いに役立っている。
思った以上に、本音で書けるからである。
もちろん、自分の本音がいつも正しいとなど考えたこともない。
そして、このブログが自分が存在した証明だとなどとも考えていない。
やがて、何もかも消滅する。
自分など、もう時間の問題、すでにカウントダウンは始まっている。
とにかく、日本人として生まれ、日本人として生きて、日本人として死ねて、ホッとしたいとだけ。
それには、この国が本来持つモラルを再生したいだけ。
そのために、むやみやたらと正義を振りかざすウソツキを見破らなければ…と願うだけ。
たかが人間、されど人間。
最後まで、生命の摩訶不思議さと対峙していたいだけ。
そうした決意のなかで、今、テレビで絶対観たくないのは、「冤罪だ。真実を明らかにせよ。17年を返せ。国と県を相手に損害賠償請求する」と息巻いているオトコ…。
正直、そのオトコの真偽には全く興味がない。
さらに言えば、同情すらしていない。
東仙坊、あわてて可能な限り調査したところ、殺人罪においていかなる不可抗力が働いたのか知らないが、公判のなかで一度でも自供したケースの冤罪は見当たらない。
そもそも、その段階で、そのオトコがホシと思われた根拠は皆無なのか?
いくら低レベルでメチャクチャ警察でも、そのオトコが捜査対象となった何らかの理由があったのでは?
そのことはどこへ行ってしまったのか?
凄く不思議な話だと思わないか?
東仙坊、Oh,my God! これこそ、C'est la vie-42 「笑いを忘れたガナリヤ」も爆笑?でも、少し触れたのだが、人間としての生理に反していると思うのだが…。
どちらにしても、そのオトコの一時の勇気の喪失(?)のせいで、4歳の少女が乱暴のうえ惨殺された事件が迷宮入りになってしまった事実はどうなるのか?
そのオトコの弱さによって、無念のままどこかを彷徨っているかも知れない魂はどうなるのか?
その責任を少しぐらい意識して、静かにしているのが人間だと思うが、どうだろう?
「ゆっくりドライブを楽しみたい」と言うより、「警察は可哀想な少女のために、捜査をしてください。その経費に私への賠償金を当ててください」と言うのが、一人の人間だと思いたいが…。
どうあれ、このケースは特例的に、警察庁と栃木県警の名誉をかけて再捜査すべきでは?
無論、誰もが感じているように、あまり期待はできないとしても…。
それで、東仙坊、一番心を痛め、人生とはここまで過酷なのか…と溜息しているのが、あの当時14歳の「酒鬼薔薇聖斗」なるサイコパスに殺害された、当時10歳の少女の遺族の複雑怪奇な胸の内…。
何でも、そのサイコパスは今、27歳になり、未だ10歳のままでしかない娘を思い続けている被害少女遺族に、謝罪の手紙(?)を送ってきているのだという。
それも、その少女の命日である3月23日に…。
4年前から、今年で4通目。
3月18日夜、昨年に続き神戸市内で、サイコパスの両親らと面会し、宛名と差出人が書かれた封筒にペンで横書きされた4枚の便箋に、小さく丁寧な字でびっしりの手紙だったというのだが…。
これまでは差出人名がなく、封も開いていたが、今年は初めて封筒にサイコパスの名が記され、封もしてあったともいう…。
そして、文面は、謝罪の言葉で始まり、自身の住所や職業、家族についての記述はなく、社会と関わり、人のやさしさなどに触れながら、人との繋がりの中で生活しているといった趣旨の近況報告だったという。
それに対し、遺族は「昨年よりも人とのかかわりを考える姿勢が感じられた。私たちの苦しみも想像しようとしていると感じた」と感想を述べ、「私信のため、詳細は教えられない。毎年、手紙が届いたことを公表してきたが、サイコパスが本心を書けなくなる可能性もあるので、今後は公表を控える」との意向も示したのである。
ちなみに、サイコパスは、2005年に医療少年院を本退院し、社会復帰している。
この話を聞いて、世の心ある人たちは一体どんな気持ちになるのだろうか?
東仙坊、一人の人間としてモラル再生を夢見る立場から、あまりにも被害少女遺族の残酷な試練と困惑している。
それはそうだと思わないか?
自分の10歳の娘が、 「手を洗える場所はないか?」と尋ねられ、学校に案内してあげたところ、「お礼を言いたいのでこっちを向いて下さい」と言われ、八角げんのう(カナヅチの一種)で頭のカタチが変わるほど殴られ、悲惨に殺された遺族なのだから…。
娘が通っていた小学校の正門付近にある桜に、「ずっとそばにいるよ 姿は見えなくても」という小さなプレートをかけた遺族だったのだから…。
とにかく、人間の持つ根源的な「forgiveness(寛大な赦し)」の度合いが測られていると言えるのでは?
もっとも、東仙坊だったら、そんな手紙など死んでも受け取らないが、それを受け取るだけでも、この遺族は人間的に懐が深いのかも…。
それに感心して、その遺族をチェックしたら、すでに数冊の本を出版しているというから、驚いた…。
「遺された者が、どう立ち上がり、どう幸福になっていくかなんです。親子一体と確信して、そう決めて、遺族がふたたび生き生きと前進していくのです。同じ悩んで悲しむなら、生き生きと悩み、生き生きと悲しみましょうよ。何があっても、自分で自分の胸中に希望の太陽を昇らせていくんですよ」と言うジャーナリストの言葉に触発され、「絶望している側から今こそ社会に希望を発信していこう」と本を書いたというから、凄過ぎる。
その結果、哀れみや同情の手紙ではなく、娘への感謝の手紙がきたことで、死んだ10年の娘の生きた時間が価値あるものになり、その喜びが一家を大きく蘇生させてくれたというから、あまりにもカッコいい。
東仙坊、この遺族に比べたら、自分など人間のヒヨコなのかも…と猛省する始末。
人間とはこんなに残酷で愚かな生き物なのか?
世の中の何がどう狂ってしまったのか?
単に教育の場で「命の尊さ」を訴えたところで、家庭で「しつけ」を厳しくしてみたところで、何も変わらない(ここは、さすがに同意はできない)。
もうけっして修復することのできない喪失を経験したことで、「生とは何か」、「死とは何か」、「幸福とは何か」ということと向き合わざるを得なくなった(ここも、どうしても同意できない。これだと子どもが殺されるまでは何も考えなかったのか? もしくは、それを考えるのには子どもが殺されなきゃいけないことになりかねない)。
いかに、私たちの国ではこういうことがなおざりにされてきたのか?
何があったとしても、どんな行き詰まりがあったとしても、そのことと悪戦苦闘できるということが人間の幸福…。
この遺族なら、あのサイコパスに「寛大な赦し」を与えられるに違いない。
実際、「加害者を許せるかと問われれば、それは永久に許すことはできません」と言いつつも、「サイコパスにもまた、深い絶望を抱えたまま人間として蘇生していってもらいたい。自分という人間の輝きを発見することで初めて、自分が奪ったものの真の価値に気づくと思う。そのすべてを、人間というものの底力を証明する舞台に変えていくことができるなら、人生はなんと素晴らしいものになる」とまで言っているのだから、東仙坊の胸の痛みは単なる杞憂なのかも…。
どちらにしても、酒鬼薔薇聖斗なるサイコパス、この人間としての「寛大なる赦し」を持つ遺族の気持ちを心に刻み、その底力を証明する舞台を作り、人生はなんと素晴らしいものだと安心して生きて欲しいと思うが…。
それにしても、何と信じ難いほど人間味にあふれる遺族なのか?
どうやら、日本中の日本人が、その爪の垢でももらうしかないと思わないか?
もちろん、人間のヒヨコである東仙坊は、必要ないけど…。
なぜなら、東仙坊が遺族だったら、おそらくこの手で………。
このモラル崩壊社会では、被害者や被害者遺族の「forgiveness(寛大な赦し)」ばかりが試されるようで、凄く不可解だと思うは、東仙坊だけではないと思いたいが…。
I don't know why such a coward could be generous like that in spite of that investigation having been over because of his lie(こんな弱虫のウソのせいで事件捜査が終わってしまったのになぜそんなに寛大にするのかわからない)!
春だから、人間らしく希望を持とうと決意している。
だからこそ、どこまでも正直で生きてやると決意してもいる。
長い間、不正直に生きた時期があることへの反省と後悔もあるからである。
その意味で、ブログを始めたことは、大いに役立っている。
思った以上に、本音で書けるからである。
もちろん、自分の本音がいつも正しいとなど考えたこともない。
そして、このブログが自分が存在した証明だとなどとも考えていない。
やがて、何もかも消滅する。
自分など、もう時間の問題、すでにカウントダウンは始まっている。
とにかく、日本人として生まれ、日本人として生きて、日本人として死ねて、ホッとしたいとだけ。
それには、この国が本来持つモラルを再生したいだけ。
そのために、むやみやたらと正義を振りかざすウソツキを見破らなければ…と願うだけ。
たかが人間、されど人間。
最後まで、生命の摩訶不思議さと対峙していたいだけ。
そうした決意のなかで、今、テレビで絶対観たくないのは、「冤罪だ。真実を明らかにせよ。17年を返せ。国と県を相手に損害賠償請求する」と息巻いているオトコ…。
正直、そのオトコの真偽には全く興味がない。
さらに言えば、同情すらしていない。
東仙坊、あわてて可能な限り調査したところ、殺人罪においていかなる不可抗力が働いたのか知らないが、公判のなかで一度でも自供したケースの冤罪は見当たらない。
そもそも、その段階で、そのオトコがホシと思われた根拠は皆無なのか?
いくら低レベルでメチャクチャ警察でも、そのオトコが捜査対象となった何らかの理由があったのでは?
そのことはどこへ行ってしまったのか?
凄く不思議な話だと思わないか?
東仙坊、Oh,my God! これこそ、C'est la vie-42 「笑いを忘れたガナリヤ」も爆笑?でも、少し触れたのだが、人間としての生理に反していると思うのだが…。
どちらにしても、そのオトコの一時の勇気の喪失(?)のせいで、4歳の少女が乱暴のうえ惨殺された事件が迷宮入りになってしまった事実はどうなるのか?
そのオトコの弱さによって、無念のままどこかを彷徨っているかも知れない魂はどうなるのか?
その責任を少しぐらい意識して、静かにしているのが人間だと思うが、どうだろう?
「ゆっくりドライブを楽しみたい」と言うより、「警察は可哀想な少女のために、捜査をしてください。その経費に私への賠償金を当ててください」と言うのが、一人の人間だと思いたいが…。
どうあれ、このケースは特例的に、警察庁と栃木県警の名誉をかけて再捜査すべきでは?
無論、誰もが感じているように、あまり期待はできないとしても…。
それで、東仙坊、一番心を痛め、人生とはここまで過酷なのか…と溜息しているのが、あの当時14歳の「酒鬼薔薇聖斗」なるサイコパスに殺害された、当時10歳の少女の遺族の複雑怪奇な胸の内…。
何でも、そのサイコパスは今、27歳になり、未だ10歳のままでしかない娘を思い続けている被害少女遺族に、謝罪の手紙(?)を送ってきているのだという。
それも、その少女の命日である3月23日に…。
4年前から、今年で4通目。
3月18日夜、昨年に続き神戸市内で、サイコパスの両親らと面会し、宛名と差出人が書かれた封筒にペンで横書きされた4枚の便箋に、小さく丁寧な字でびっしりの手紙だったというのだが…。
これまでは差出人名がなく、封も開いていたが、今年は初めて封筒にサイコパスの名が記され、封もしてあったともいう…。
そして、文面は、謝罪の言葉で始まり、自身の住所や職業、家族についての記述はなく、社会と関わり、人のやさしさなどに触れながら、人との繋がりの中で生活しているといった趣旨の近況報告だったという。
それに対し、遺族は「昨年よりも人とのかかわりを考える姿勢が感じられた。私たちの苦しみも想像しようとしていると感じた」と感想を述べ、「私信のため、詳細は教えられない。毎年、手紙が届いたことを公表してきたが、サイコパスが本心を書けなくなる可能性もあるので、今後は公表を控える」との意向も示したのである。
ちなみに、サイコパスは、2005年に医療少年院を本退院し、社会復帰している。
この話を聞いて、世の心ある人たちは一体どんな気持ちになるのだろうか?
東仙坊、一人の人間としてモラル再生を夢見る立場から、あまりにも被害少女遺族の残酷な試練と困惑している。
それはそうだと思わないか?
自分の10歳の娘が、 「手を洗える場所はないか?」と尋ねられ、学校に案内してあげたところ、「お礼を言いたいのでこっちを向いて下さい」と言われ、八角げんのう(カナヅチの一種)で頭のカタチが変わるほど殴られ、悲惨に殺された遺族なのだから…。
娘が通っていた小学校の正門付近にある桜に、「ずっとそばにいるよ 姿は見えなくても」という小さなプレートをかけた遺族だったのだから…。
とにかく、人間の持つ根源的な「forgiveness(寛大な赦し)」の度合いが測られていると言えるのでは?
もっとも、東仙坊だったら、そんな手紙など死んでも受け取らないが、それを受け取るだけでも、この遺族は人間的に懐が深いのかも…。
それに感心して、その遺族をチェックしたら、すでに数冊の本を出版しているというから、驚いた…。
「遺された者が、どう立ち上がり、どう幸福になっていくかなんです。親子一体と確信して、そう決めて、遺族がふたたび生き生きと前進していくのです。同じ悩んで悲しむなら、生き生きと悩み、生き生きと悲しみましょうよ。何があっても、自分で自分の胸中に希望の太陽を昇らせていくんですよ」と言うジャーナリストの言葉に触発され、「絶望している側から今こそ社会に希望を発信していこう」と本を書いたというから、凄過ぎる。
その結果、哀れみや同情の手紙ではなく、娘への感謝の手紙がきたことで、死んだ10年の娘の生きた時間が価値あるものになり、その喜びが一家を大きく蘇生させてくれたというから、あまりにもカッコいい。
東仙坊、この遺族に比べたら、自分など人間のヒヨコなのかも…と猛省する始末。
人間とはこんなに残酷で愚かな生き物なのか?
世の中の何がどう狂ってしまったのか?
単に教育の場で「命の尊さ」を訴えたところで、家庭で「しつけ」を厳しくしてみたところで、何も変わらない(ここは、さすがに同意はできない)。
もうけっして修復することのできない喪失を経験したことで、「生とは何か」、「死とは何か」、「幸福とは何か」ということと向き合わざるを得なくなった(ここも、どうしても同意できない。これだと子どもが殺されるまでは何も考えなかったのか? もしくは、それを考えるのには子どもが殺されなきゃいけないことになりかねない)。
いかに、私たちの国ではこういうことがなおざりにされてきたのか?
何があったとしても、どんな行き詰まりがあったとしても、そのことと悪戦苦闘できるということが人間の幸福…。
この遺族なら、あのサイコパスに「寛大な赦し」を与えられるに違いない。
実際、「加害者を許せるかと問われれば、それは永久に許すことはできません」と言いつつも、「サイコパスにもまた、深い絶望を抱えたまま人間として蘇生していってもらいたい。自分という人間の輝きを発見することで初めて、自分が奪ったものの真の価値に気づくと思う。そのすべてを、人間というものの底力を証明する舞台に変えていくことができるなら、人生はなんと素晴らしいものになる」とまで言っているのだから、東仙坊の胸の痛みは単なる杞憂なのかも…。
どちらにしても、酒鬼薔薇聖斗なるサイコパス、この人間としての「寛大なる赦し」を持つ遺族の気持ちを心に刻み、その底力を証明する舞台を作り、人生はなんと素晴らしいものだと安心して生きて欲しいと思うが…。
それにしても、何と信じ難いほど人間味にあふれる遺族なのか?
どうやら、日本中の日本人が、その爪の垢でももらうしかないと思わないか?
もちろん、人間のヒヨコである東仙坊は、必要ないけど…。
なぜなら、東仙坊が遺族だったら、おそらくこの手で………。
このモラル崩壊社会では、被害者や被害者遺族の「forgiveness(寛大な赦し)」ばかりが試されるようで、凄く不可解だと思うは、東仙坊だけではないと思いたいが…。
I don't know why such a coward could be generous like that in spite of that investigation having been over because of his lie(こんな弱虫のウソのせいで事件捜査が終わってしまったのになぜそんなに寛大にするのかわからない)!