東仙坊、人様のpcをお借りしての耳元への「囁き」!?-12
I wonder if the Japanese earthquake victims should wait still for support supplies once without doing anything(かつて日本の地震被災者たちは、何もしないで支援物資をじっと待っていたのか)!
東仙坊、部屋の片づけを間もなく終えられそう。
ありとあらゆる棚を取り払い、何とか眠れるスペースを創れそう。
どうやら、自分のpcも無事の様子。
それにしても、狭い部屋に本が、DVDが、VHSテープ、レコードが多過ぎる。
後どのくらい生きられるかわからないのだから、早く整理をすべきなのかも。
死んだら跡形もないことが、一番美しいと信じている以上、「断捨離」をもっともっと実行すべきなのかも。
そう、「明日も生きられるどうか?!」は、誰にもわからないはず。
今回の東日本大震災のTSUNAMIの猛威を観ると、イヤでもそう思わされるのは、東仙坊だけではあるまい。
ところで、部屋を片づけながら、あることに気づいて、愕然としていることがある。
写真嫌いの東仙坊、もうここ何年も自分の写真を撮ったことがないし、撮らせたこともない。
それでも、たった1枚だけ20代のころの写真を写真立てに入れ部屋に飾っていたらしい。
それを見ることすらなかったので、すっかりその存在すら忘れていたのだが、それがなぜか割れることなく瓦礫の中から(?)見つかって、ギクッとさせられた。
確か、三陸海岸の「浄土ヶ浜」で撮った写真と思い出したからである。
な、な、何と言う因果か…。
そ、そ、そこで、唐突と「浄土ヶ浜」がどうなってしまったのか?
必死にweb検索。
そして、あの日本庭園のように優美だった浜も、グシャグシャになってしまったことを知って、しばし絶句…。
あのとき、「浄土ヶ浜なんて、なんて恐ろしく大それたネーミングをつけたんだ。とんでもないバチあたりでは?」と、シニカルな気分になっていたことまで思い出し、ますます複雑。
まさに、人生そのものと痛感させられているのだが…。
さて、福島原発事故は人災!とここまで長々と書き込んできて、やっとのことで本題に入る。
たかだか100年にも満たない人生で、戦争か天災に出遭わずに生きることがいかに難しいことか?
それも、歴史的な大地震とTSUNAMIに遭遇するなんて、なんと希少な運命なことか?
とりわけ、1933年の昭和三陸大津波、1941年からの大東亜戦争、1960年のチリ地震津波、そして、今回の東日本大震災を経験させられた人の人生の濃密さは、想像を絶するものがあるのでは?
そう言えば、幼児のときに関東大震災を経験し、大東亜戦争を味わった両親が、「もう死ぬまで、あんな思いをしたくない」というのが、口癖だった。
今ごろ、あちらで、「よかった。よかった」とホッとしているかも…。
どうあれ、あれだけの巨大地震や巨大津波に襲撃され、生き残る人と不運にもなくなってしまう人との間には、一体どんな違いがあったのか?
どちらにしても、生きるも地獄、死ぬも地獄の岐路に立たされ、その人生の不条理を痛切に実感させられたに違いない。
確かに、仮に運よく生き残っても、大切な人やモノを失ったりして、一瞬「頭が真っ白!」になるかも知れない。
しかし、その現実に目をそらすことなく対峙し、悲しみを抱えながらも、必死で自分でどうしようと考え、自分で生きようとするのが人間なのでは?
特に、世界から評価されるように、その真摯さ、ひたむきさこそが、日本人の美徳なのでは?
実際、大東亜戦争の戦後、何もない焼野原から復興したのは、そういう人間としてのプライドを持っていたからではないのか?
そして、その日本人の美徳の真髄は、人から必要以上に世話にならない「遠慮」、すべての事象を運命と受け止める「儚さ」と「諦め」、甘えを恥とみなし自分の力と英知ですべてを克服しようとする「自律」、損して得を取る「慎ましさ」だったはずでは?
東仙坊、誰も言わないので言わざるを得ない。
これだけの地震大国の我が国で生活していて、もし大地震に遭ったら…、あるいは、もし大津波に遭ったら…、と全く想像していなかったのか?
もっと正直に言えば、被災者とは、何かの特権や資格や功績なのか?
もちろん、マスメディアの巧妙な煽動もあるだろうが、「あれが欲しいこれが欲しい」、「これが不足している」と言い過ぎだと思わないか?
誤解されるのを恐れるからではないが、東仙坊、すでにささやかな義援金を送付している。
だからこそ、あえて言うのではないが、被災地で、懸命に支援物資を配る人たちの手伝いもしないで、ただ受け取るばかりのヒトって、一体どんなつもりなのか?
無論、全部が全部そんな無遠慮で、不謹慎なヒトではないことを百も承知している。
けれども、どこか不自然で気になっているのは、東仙坊だけではないと思うが…。
そもそも、そういう自分で何もしようとしないヒトは、電気があり、水道があり、ガスがあり、ガソリンがあり、水洗トイレがある暮らしが、メチャクチャ豊かであるという自覚すらなくて、ダラダラ生きていたのでは?
それって、どれだけ贅沢なことかということすら感じないでいたのでは?
それこそ、大きな勘違いなのでは?
自分で何も考えず何もせず、何もかもをしてもらおうと考えるのは、人間失格では?
どこか日本人の矜持に根本的に反していると思うが、どうだろう?
その意味で、自分の大切な人やモノを失いながらも、人のために今なお献身している自治体職員、消防団員、警察官、自衛隊員が間違いなくいて、そんな人こそ日本人なのでは?
東仙坊、あえてここまで言うのには、かねてから指摘している我が国のモラル完全崩壊と結びついている気がするからである。事実、かつての日本人では考えられなかった、どさくさの紛れの火事場泥棒的窃盗事件が、メチャクチャ発生しているのでは?
宮城県だけでも、窃盗認知事件は、290件と昨年対比で約100件増。
そのうち、出店荒らしが60件増の約80件、ガソリン盗が40件増の120件(ということは、昨年も80件?)。
被害額も約1億円で、現金7500万円、食料品・衣類・貴金属で2500万円。
本当に情けなくてみっともないと思わないか?
それだけではない。
義援金詐欺、水のフィッシング詐欺が多発しているのでは?
どこか違和感を覚えないか?
「被災者だから、もらうのが当たり前」、「被災者だから、もらわなきゃ損」、「被災者だから、もっと欲しい」、「被災者だから、何々してくれなきゃイヤ」…。
どうだろう?
いくら高齢化社会だからと言って、まるで高齢者みたいな甘えたヒトが増えたと思わないか?
基本的に人間として生きるということは、自分で汗を流して生きることなのでは?
東仙坊、どうしても変だと思う最大の理由は、もしこの地震が日本大震災だったら…と考えるから。
それはそうだと思わないか?
地震は、いつもバラバラに起きるワケではないのでは?
今回は、たまたま東日本大震災で終わっただけでは?
仮に、日本中が被災に遭ったら、一体誰がどこから支援物資を送ってくれるのか?と思わないか?
えっ、今回みたいに世界中から送ってもらえるって?
本当にそうなのだろうか?
それ以上に、それでいいのだろうか?
「ガンバロウ、日本!ガンバロウ、東北!」と祈りながらも、ついついそんなことを考えてしまっているのは、東仙坊だけではあるまい。
I wonder when the Japanese earthquake victim would seem to have become an avaricious senior citizen from(日本の地震被災者は、いつごろから強欲な高齢者のようになったのか)!
To be continued...
東仙坊、部屋の片づけを間もなく終えられそう。
ありとあらゆる棚を取り払い、何とか眠れるスペースを創れそう。
どうやら、自分のpcも無事の様子。
それにしても、狭い部屋に本が、DVDが、VHSテープ、レコードが多過ぎる。
後どのくらい生きられるかわからないのだから、早く整理をすべきなのかも。
死んだら跡形もないことが、一番美しいと信じている以上、「断捨離」をもっともっと実行すべきなのかも。
そう、「明日も生きられるどうか?!」は、誰にもわからないはず。
今回の東日本大震災のTSUNAMIの猛威を観ると、イヤでもそう思わされるのは、東仙坊だけではあるまい。
ところで、部屋を片づけながら、あることに気づいて、愕然としていることがある。
写真嫌いの東仙坊、もうここ何年も自分の写真を撮ったことがないし、撮らせたこともない。
それでも、たった1枚だけ20代のころの写真を写真立てに入れ部屋に飾っていたらしい。
それを見ることすらなかったので、すっかりその存在すら忘れていたのだが、それがなぜか割れることなく瓦礫の中から(?)見つかって、ギクッとさせられた。
確か、三陸海岸の「浄土ヶ浜」で撮った写真と思い出したからである。
な、な、何と言う因果か…。
そ、そ、そこで、唐突と「浄土ヶ浜」がどうなってしまったのか?
必死にweb検索。
そして、あの日本庭園のように優美だった浜も、グシャグシャになってしまったことを知って、しばし絶句…。
あのとき、「浄土ヶ浜なんて、なんて恐ろしく大それたネーミングをつけたんだ。とんでもないバチあたりでは?」と、シニカルな気分になっていたことまで思い出し、ますます複雑。
まさに、人生そのものと痛感させられているのだが…。
さて、福島原発事故は人災!とここまで長々と書き込んできて、やっとのことで本題に入る。
たかだか100年にも満たない人生で、戦争か天災に出遭わずに生きることがいかに難しいことか?
それも、歴史的な大地震とTSUNAMIに遭遇するなんて、なんと希少な運命なことか?
とりわけ、1933年の昭和三陸大津波、1941年からの大東亜戦争、1960年のチリ地震津波、そして、今回の東日本大震災を経験させられた人の人生の濃密さは、想像を絶するものがあるのでは?
そう言えば、幼児のときに関東大震災を経験し、大東亜戦争を味わった両親が、「もう死ぬまで、あんな思いをしたくない」というのが、口癖だった。
今ごろ、あちらで、「よかった。よかった」とホッとしているかも…。
どうあれ、あれだけの巨大地震や巨大津波に襲撃され、生き残る人と不運にもなくなってしまう人との間には、一体どんな違いがあったのか?
どちらにしても、生きるも地獄、死ぬも地獄の岐路に立たされ、その人生の不条理を痛切に実感させられたに違いない。
確かに、仮に運よく生き残っても、大切な人やモノを失ったりして、一瞬「頭が真っ白!」になるかも知れない。
しかし、その現実に目をそらすことなく対峙し、悲しみを抱えながらも、必死で自分でどうしようと考え、自分で生きようとするのが人間なのでは?
特に、世界から評価されるように、その真摯さ、ひたむきさこそが、日本人の美徳なのでは?
実際、大東亜戦争の戦後、何もない焼野原から復興したのは、そういう人間としてのプライドを持っていたからではないのか?
そして、その日本人の美徳の真髄は、人から必要以上に世話にならない「遠慮」、すべての事象を運命と受け止める「儚さ」と「諦め」、甘えを恥とみなし自分の力と英知ですべてを克服しようとする「自律」、損して得を取る「慎ましさ」だったはずでは?
東仙坊、誰も言わないので言わざるを得ない。
これだけの地震大国の我が国で生活していて、もし大地震に遭ったら…、あるいは、もし大津波に遭ったら…、と全く想像していなかったのか?
もっと正直に言えば、被災者とは、何かの特権や資格や功績なのか?
もちろん、マスメディアの巧妙な煽動もあるだろうが、「あれが欲しいこれが欲しい」、「これが不足している」と言い過ぎだと思わないか?
誤解されるのを恐れるからではないが、東仙坊、すでにささやかな義援金を送付している。
だからこそ、あえて言うのではないが、被災地で、懸命に支援物資を配る人たちの手伝いもしないで、ただ受け取るばかりのヒトって、一体どんなつもりなのか?
無論、全部が全部そんな無遠慮で、不謹慎なヒトではないことを百も承知している。
けれども、どこか不自然で気になっているのは、東仙坊だけではないと思うが…。
そもそも、そういう自分で何もしようとしないヒトは、電気があり、水道があり、ガスがあり、ガソリンがあり、水洗トイレがある暮らしが、メチャクチャ豊かであるという自覚すらなくて、ダラダラ生きていたのでは?
それって、どれだけ贅沢なことかということすら感じないでいたのでは?
それこそ、大きな勘違いなのでは?
自分で何も考えず何もせず、何もかもをしてもらおうと考えるのは、人間失格では?
どこか日本人の矜持に根本的に反していると思うが、どうだろう?
その意味で、自分の大切な人やモノを失いながらも、人のために今なお献身している自治体職員、消防団員、警察官、自衛隊員が間違いなくいて、そんな人こそ日本人なのでは?
東仙坊、あえてここまで言うのには、かねてから指摘している我が国のモラル完全崩壊と結びついている気がするからである。事実、かつての日本人では考えられなかった、どさくさの紛れの火事場泥棒的窃盗事件が、メチャクチャ発生しているのでは?
宮城県だけでも、窃盗認知事件は、290件と昨年対比で約100件増。
そのうち、出店荒らしが60件増の約80件、ガソリン盗が40件増の120件(ということは、昨年も80件?)。
被害額も約1億円で、現金7500万円、食料品・衣類・貴金属で2500万円。
本当に情けなくてみっともないと思わないか?
それだけではない。
義援金詐欺、水のフィッシング詐欺が多発しているのでは?
どこか違和感を覚えないか?
「被災者だから、もらうのが当たり前」、「被災者だから、もらわなきゃ損」、「被災者だから、もっと欲しい」、「被災者だから、何々してくれなきゃイヤ」…。
どうだろう?
いくら高齢化社会だからと言って、まるで高齢者みたいな甘えたヒトが増えたと思わないか?
基本的に人間として生きるということは、自分で汗を流して生きることなのでは?
東仙坊、どうしても変だと思う最大の理由は、もしこの地震が日本大震災だったら…と考えるから。
それはそうだと思わないか?
地震は、いつもバラバラに起きるワケではないのでは?
今回は、たまたま東日本大震災で終わっただけでは?
仮に、日本中が被災に遭ったら、一体誰がどこから支援物資を送ってくれるのか?と思わないか?
えっ、今回みたいに世界中から送ってもらえるって?
本当にそうなのだろうか?
それ以上に、それでいいのだろうか?
「ガンバロウ、日本!ガンバロウ、東北!」と祈りながらも、ついついそんなことを考えてしまっているのは、東仙坊だけではあるまい。
I wonder when the Japanese earthquake victim would seem to have become an avaricious senior citizen from(日本の地震被災者は、いつごろから強欲な高齢者のようになったのか)!
To be continued...