恒久不変な日本砂漠-46 本当に地球上の人間社会は「ワンチーム」なのか?
The new year began with the artificial virus “Chinese Communist virus”, and it has been a new year to test how much we could control ourselves so that we wouldn't be infected(人造ウィルスの「中共ウィルス」とともに年が明け、それに意地でも感染しないために自分をどこまで律することができるかを試される新年になった)!
■ニューイヤー・スペシャル・バージョン 東仙坊の「元旦」の「邯鄲の夢」
●「With Corona」を克服する「勝因」は、「松蔭」に学ぶこと。
◆人生は、儚く、短い。そして、その栄枯盛衰も、儚く、儚い。
東仙坊、こうして今まで生きてきてみて、本当に、「Life is very short」とシミジミ痛感し、「Let it be」と心のそこから覚悟する日々。
それはそうである。
この世にあるたった1つの真実は、誰がどう言おうと、自分がいつか必ず死ぬということだけ。
だから、それ以外のことは、ほとんど眉唾か、刹那的な空蝉と決めつけている。
それゆえ、東仙坊の数少ない生活信条は、たった3つ。
1つは、親鸞が、高弟に「浄土は本当にあるのでしょうか?」との問いに、「オレは死んだことがないからわからない」と一言で答えたということ。
2つ目は、レッド・ツェッペリンのボーカル、ロバート・プラントが、ライブ・コンサートのたびに叫んだ、「All is the illusion」という言葉。
3つ目が、この「中共ウィルス」禍の中で、特にフィーチャーしたい吉田松陰の例の言葉たち。
「世に従わん人は、まず機嫌(潮時)を知るべし。ついで悪しきコトは、人の耳にも逆い、心にも違いて、そのコト成らず。そのような折節を心得るべきなり。ただし、病を受け、子生み、死ぬるコトのみ、機嫌をはからず、ついで悪しとて止むコトなし。生・住・異・滅の移り変る、実の大事は、猛き河の漲り流るゝがごとし。しばしも滞らず、直ちに行いゆくものなり。されば、真俗につけて、必ず果し遂げんと思はんコトは、機嫌を言うべからず。とかくのもよひなく、足を踏み止むまじきなり。春暮れて後、夏になり、夏果てて、秋のくるにはあらず。春はやがて夏の気を催し、夏よりすでに秋は通い、秋はすなわち寒くなり、十月は小春の天気、草も青くなり、梅も蕾みぬ。木の葉の落ちるも、まず落ちて芽ぐむにはあらず、下より萌しつはるに堪へずして落ちるなり。迎ふる気、下に設けたるゆえに、待ちとるついではなはだ速し。生・老・病・死の移りくるコト、また、これに過ぎたり。四季は、なお、定まれるついであり。死期はついでを待たず。死は、前よりしもきたらず。かねて後に迫れり。人皆死あるコトを知りて、待つことしかも急ならざるに、覚えずしてきたる。沖の干潟遥かなれども、磯より潮の満つるがごとし」と「人、死を憎まば、生を愛すべし」。
「夢なき者に理想なし、理想なき者に計画なし、計画なき者に実行なし、実行なき者に成功なし。ゆえに、夢なき者に成功なし」
「人間は皆なにほどかの純金を持って生まれている。聖人の純金も我々の純金も変わりはない」
「自分の価値観で人を責めない。一つの失敗で全て否定しない。長所を見て短所を見ない。心を見て結果を見ない。そうすれば、人は必ず集まってくる」
「君子は何事に臨んでも、それが道理に合っているか否かと考えて、そのうえで行動する。小人は何事に臨んでも、それが利益になるか否かと考えて、そのうえで行動する」
「世の中には体は生きているが、心が死んでいる者がいる。反対に、体が滅んでも魂が残っている者もいる。心が死んでしまえば生きていても、仕方がない。魂が残っていれば、たとえ体が滅んでも意味がある」
「『教える』の語源は、『愛しむ』。誰にも得手不手がある、絶対に人を見捨てるようなことをしてはいけない」
「人を信ずることは、もちろん、遥かに人を疑うことに勝っている。私は、人を信じ過ぎる欠点があったとしても、絶対に人を疑い過ぎる欠点はないようにしたいと思う」
「法律を破ったことについての償いは、死罪になるにせよ、罪に服することによってできるが、もし人間道徳の根本義を破れば、誰に向かって償いえるか? 償いようがないではありませぬか」
「敵が弱いように、敵が衰えるようにと思うのは、皆、愚痴もはなはだしい。自分に勢いがあれば、どうして敵の勢いを恐れようか。自分が強ければ、どうして敵の強さを恐れようか」
とりわけ、東仙坊、新年らしく新たに意識されられたのが、これら。
「今日の読書こそ、真の学問である」
「学問とは、人間はいかに生きていくべきかを学ぶものだ」
「満開となれば、やがて花は落ちる。太陽は南中すれば、やがて陰り始める。人は壮年を迎えれば、やがて老いていく。百年の間、必死で勉強すべきであり、ゆったりとくつろぐ暇などない」
「17、18の死が惜しければ、30の死も惜しい。80、90、100になってもこれで足りたということはない。半年という虫たちの命が短いとは思わないし、松や柏のように数百年の命が長いとも思わない。天地の悠久に比べれば、松柏も『一時蠅』なり」
どうだろう?
我々普通の日本人なら、どこまでも本来の日本人らしくセンシティブにデリケートにケアフルに、この「中共ウィルス」と真っ向から対峙して、自らのモラル高き集中力で、感染阻止ができると思わないか?
極めつけが、吉田松陰が、最初の弟子である金子重輔に説いたという釈迦の教え。
「現世は一瞬である、前世は一瞬の前の長い過去であり、来世は一瞬の後の長い未来である。 現世の永さなど、どれほどのものか!!! この道理を理解せず、短い苦に耐えかねて永遠の喜びを失う者のいかに多いことか」
どうだろう?
我々日本人は、この言葉を一人一人が本気で肝に銘じればイイだけでは?
そう、「『中共ウィルス』なんかにかかってたまるか」の気概を持って…。
Isn't it time to seriously think about what you wanna do with your life now(今、命懸けでやりたいことが何なのかを真剣に考えるべきときがきているのでは)?
To be continued...
■ニューイヤー・スペシャル・バージョン 東仙坊の「元旦」の「邯鄲の夢」
●「With Corona」を克服する「勝因」は、「松蔭」に学ぶこと。
◆人生は、儚く、短い。そして、その栄枯盛衰も、儚く、儚い。
東仙坊、こうして今まで生きてきてみて、本当に、「Life is very short」とシミジミ痛感し、「Let it be」と心のそこから覚悟する日々。
それはそうである。
この世にあるたった1つの真実は、誰がどう言おうと、自分がいつか必ず死ぬということだけ。
だから、それ以外のことは、ほとんど眉唾か、刹那的な空蝉と決めつけている。
それゆえ、東仙坊の数少ない生活信条は、たった3つ。
1つは、親鸞が、高弟に「浄土は本当にあるのでしょうか?」との問いに、「オレは死んだことがないからわからない」と一言で答えたということ。
2つ目は、レッド・ツェッペリンのボーカル、ロバート・プラントが、ライブ・コンサートのたびに叫んだ、「All is the illusion」という言葉。
3つ目が、この「中共ウィルス」禍の中で、特にフィーチャーしたい吉田松陰の例の言葉たち。
「世に従わん人は、まず機嫌(潮時)を知るべし。ついで悪しきコトは、人の耳にも逆い、心にも違いて、そのコト成らず。そのような折節を心得るべきなり。ただし、病を受け、子生み、死ぬるコトのみ、機嫌をはからず、ついで悪しとて止むコトなし。生・住・異・滅の移り変る、実の大事は、猛き河の漲り流るゝがごとし。しばしも滞らず、直ちに行いゆくものなり。されば、真俗につけて、必ず果し遂げんと思はんコトは、機嫌を言うべからず。とかくのもよひなく、足を踏み止むまじきなり。春暮れて後、夏になり、夏果てて、秋のくるにはあらず。春はやがて夏の気を催し、夏よりすでに秋は通い、秋はすなわち寒くなり、十月は小春の天気、草も青くなり、梅も蕾みぬ。木の葉の落ちるも、まず落ちて芽ぐむにはあらず、下より萌しつはるに堪へずして落ちるなり。迎ふる気、下に設けたるゆえに、待ちとるついではなはだ速し。生・老・病・死の移りくるコト、また、これに過ぎたり。四季は、なお、定まれるついであり。死期はついでを待たず。死は、前よりしもきたらず。かねて後に迫れり。人皆死あるコトを知りて、待つことしかも急ならざるに、覚えずしてきたる。沖の干潟遥かなれども、磯より潮の満つるがごとし」と「人、死を憎まば、生を愛すべし」。
「夢なき者に理想なし、理想なき者に計画なし、計画なき者に実行なし、実行なき者に成功なし。ゆえに、夢なき者に成功なし」
「人間は皆なにほどかの純金を持って生まれている。聖人の純金も我々の純金も変わりはない」
「自分の価値観で人を責めない。一つの失敗で全て否定しない。長所を見て短所を見ない。心を見て結果を見ない。そうすれば、人は必ず集まってくる」
「君子は何事に臨んでも、それが道理に合っているか否かと考えて、そのうえで行動する。小人は何事に臨んでも、それが利益になるか否かと考えて、そのうえで行動する」
「世の中には体は生きているが、心が死んでいる者がいる。反対に、体が滅んでも魂が残っている者もいる。心が死んでしまえば生きていても、仕方がない。魂が残っていれば、たとえ体が滅んでも意味がある」
「『教える』の語源は、『愛しむ』。誰にも得手不手がある、絶対に人を見捨てるようなことをしてはいけない」
「人を信ずることは、もちろん、遥かに人を疑うことに勝っている。私は、人を信じ過ぎる欠点があったとしても、絶対に人を疑い過ぎる欠点はないようにしたいと思う」
「法律を破ったことについての償いは、死罪になるにせよ、罪に服することによってできるが、もし人間道徳の根本義を破れば、誰に向かって償いえるか? 償いようがないではありませぬか」
「敵が弱いように、敵が衰えるようにと思うのは、皆、愚痴もはなはだしい。自分に勢いがあれば、どうして敵の勢いを恐れようか。自分が強ければ、どうして敵の強さを恐れようか」
とりわけ、東仙坊、新年らしく新たに意識されられたのが、これら。
「今日の読書こそ、真の学問である」
「学問とは、人間はいかに生きていくべきかを学ぶものだ」
「満開となれば、やがて花は落ちる。太陽は南中すれば、やがて陰り始める。人は壮年を迎えれば、やがて老いていく。百年の間、必死で勉強すべきであり、ゆったりとくつろぐ暇などない」
「17、18の死が惜しければ、30の死も惜しい。80、90、100になってもこれで足りたということはない。半年という虫たちの命が短いとは思わないし、松や柏のように数百年の命が長いとも思わない。天地の悠久に比べれば、松柏も『一時蠅』なり」
どうだろう?
我々普通の日本人なら、どこまでも本来の日本人らしくセンシティブにデリケートにケアフルに、この「中共ウィルス」と真っ向から対峙して、自らのモラル高き集中力で、感染阻止ができると思わないか?
極めつけが、吉田松陰が、最初の弟子である金子重輔に説いたという釈迦の教え。
「現世は一瞬である、前世は一瞬の前の長い過去であり、来世は一瞬の後の長い未来である。 現世の永さなど、どれほどのものか!!! この道理を理解せず、短い苦に耐えかねて永遠の喜びを失う者のいかに多いことか」
どうだろう?
我々日本人は、この言葉を一人一人が本気で肝に銘じればイイだけでは?
そう、「『中共ウィルス』なんかにかかってたまるか」の気概を持って…。
Isn't it time to seriously think about what you wanna do with your life now(今、命懸けでやりたいことが何なのかを真剣に考えるべきときがきているのでは)?
To be continued...