東仙坊、結局、もう一度ひたすら吉田松陰に学びつつ日々生きるだけ!?
I am profitable merely by living with consciousness(意識を持って生きていられるだけで、丸儲け)!
やはり、自然災害も、自分の死も、必ず前方からやってくるものとは限らず、 いつの間にか背後に迫っていただけ。
そう、人は誰しもみな、死があることを知っているものの、しかも死が急にやってくると思って待っていないうちに、死は不意にやってくる。
それはちょうど、沖まで の干潟が遥か彼方まで続いているので安心していても、足もとの磯から急に潮が満ちてくるようなもの。
それだけが、人生のたった一つの真実。
あの吉田松陰は、明言している。
世に従はん人は、まづ、機嫌を知るべし。ついで悪しき事は、人の耳にも逆ひ、心にも違ひて、その事成らず。さやうの折節を心得べきなり。ただし、病を受け、子生み、死ぬる事のみ、機嫌をはからず、ついで悪しとて止む事なし。生(しやう)・住・異・滅の移り変る、実の大事は、猛き河の漲(みなぎ)り流るゝが如し。暫しも滞らず、直ちに行ひゆくものなり。されば、真俗につけて、必ず果し遂げんと思はん事は、機嫌を言ふべからず。とかくのもよひなく、足を踏み止むまじきなり。
春暮れて後、夏になり、夏果てて、秋のくるにはあらず。春はやがて夏の気を催し、夏よりすでに秋は通ひ、秋はすなわち寒くなり、十月は小春の天気、草も青くなり、梅も蕾みぬ。木の葉の落つるも、先づ落ちて芽ぐむにはあらず、下より萌(きざ)しつはるに堪へずして落つるなり。迎ふる気、下に設けたるゆえに、待ちとるついで甚だ速し。生・老・病・死の移りきたる事、また、これに過ぎたり。四季は、なほ、定まれるついであり。死期はついでを待たず。死は、前よりしもきたらず、かねて後に迫れり。人皆死ある事を知りて、待つことしかも急ならざるに、覚えずしてきたる。沖の干潟遥かなれども、磯より潮の満つるが如し。
(世の中に順応してゆこうと思う人、世間並みに生きてゆこうと思う人は、まず第一に、物事が都合よくゆく時機というものを知らなければならない。
物事の運ばれる順序に適しないコトは、人の耳にも逆らい、人の心にも合わずに、そのコト自体うまくいかない。
そのような時機の善し悪しをわきまえなければならない。
ただし、病気にかかること、子を産むこと、死ぬことだけは、時機の善し悪しには関わらない。
順序が悪いからといって、それが中止になることがない。
モノが生じ、ある期間存続し、それが変化してゆき、やがて滅び去るという、すべてのモノは変転して止まないという真の重大事は、流れの激しい川が水をいっぱいに湛えて流れていくようなもの。
しばらくの間も停滞することなく、どんどん進んでいくもの。
であるから、仏道修行のうえでも、俗世間に処してゆくうえでも、必ずやり遂げようと思うことは、時機をあれこれ言うべきではない。
なんのかのと、躊躇うことなく、足踏みをしてはならない。
春が暮れてそのあと夏になり、夏が終わって秋がくるのではない。
春は春のまま夏の気配を兆しており、夏のうちから早くも秋の気配が入り交じり、秋はすぐに寒くなり、寒いはずの十月は、小春日和の暖かさであって、草も青くなり、梅も蕾をつけてしまう。
木の葉が落ちるのも、まず木の葉が落ちて、それから芽が生じるのではない。
木の内部から芽が兆し、その勢いの進むのに堪え切れないで、木の葉が落ちるのである。
新しい変化を迎え入れる気配が木の内部に待ち受けているので、交替する順序が非常に速い。
生(しょう)・老・病・死の四苦がやってくることも、また、四季の変化以上に速やか。
四季は、速いとはいっても、やはり決まった順序がある。
しかし、臨終の時は、順序を待たない。
死は必ず前方からやってくるものとは限らず、 いつの間にか、人の背後に迫っている。
人は誰しも皆、死があることを知っているものの、しかも死が急にやってくると思って待っていないうちに、死は不意にやってくる。
それはちょうど、沖まで の干潟が遥か彼方まで続いているので安心していても、足もとの磯から急に潮が満ちてくるようなもの)
さらに、吉田松陰は言う。
「人間はみななにほどかの純金を持って生まれている。聖人の純金も我々の純金も変わりはない」
「宜しく先ず一事より一日より始むべし」
「みだりに人の師となるべからず。みだりに人を師とすべからず」
「死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし。生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし」
「学問の上で大いに忌むべきことは、したり止めたりである。したり止めたりであっては、ついに成就することはない」
「悔いるよりも、今日直ちに決意して、仕事を始め、技術を試すべきである。何も着手に年齢の早い晩いは問題にならない」
「人を信ずることは、もちろん、遥かに人を疑うことに勝っている」
「私心さえ除き去るならば、進むもよし退くもよし、出るもよし出ざるもよし」
「世に材なきを憂えず、その材を用いざるを患う」
「あまり怒りよると、とうとう腹もなんにも立たぬようになる」
「死生は度外に置くべし。世人がどう是非を論じようと、迷う必要はない」
「父母を喜ばせるために妻を持ち、宮仕えするのもよいでしょう。ただし、正論を通しなさい。ならば必ず放逐後退の時期がくる。そのときに書を読み、心を練り、十年後の大事に備えるのです」
「命が惜しいか、腹が決まらぬか、学問が進んだか、忠孝の心が薄く成ったか、他人の評は何ともあれ、自然と決めた」
どうだろう?
人間には、生きている限り、精一杯その機嫌を生きるしか道はないのでは?
With encounter with a coincident pride doctor, I could live a normal for a while already(偶然のプライドのある医師との出会いによって、もうしばらく普通に生きられる)!