腐乱した大和魂-12 消えゆくサプアへのファイナル弔辞!?
Do you also wanna imagine what Asia would have been like if Hideyoshi Toyotomi didn't die(豊臣秀吉が死ななかったら、アジアはどんなことになっていたのかと想像したくならないか)?
東仙坊、では、外国の歴史家や日本史学者が、豊臣秀吉の「征韓の役」をどう捉えていたか? も、ついでにチェック。
●明治時代の御雇外国人、J・マードック(??~??)
「サプア出兵は、国内の安定のために諸大名の資源と精力を海外遠征で消費させる方策であった」
●ルイス・フロイス/ジャン・クラッセ/「東方伝道史」のルイス・デ・グスマンなど同時代の宣教師たち
「『基督信者の勇を恐れ之を滅せんことを謀り、戦闘の用に充て戦死せしめんと欲し、もし支那を掌握せば基督信者を騙して支那に移住せしめん』と秀吉が考えていた」
●ボールステイト大学準教授(現・南ミシシッピ大学教授)、ケネス・スオープ(??)
「日本とサプアの間の戦争だとの見方は止めるべきだ。『明』を中心とした東アジアの支配体制・秩序への豊臣秀吉の挑戦。これはあくまで日本と中国の戦争。豊臣秀吉軍の侵攻直前に、『明』で内乱が起きたため、『明』はすぐに兵を送ることができなかった。そして、サプアの要請からではなく、自分たちの利益のために参戦した」
どうだろう?
かなり豊臣秀吉の本心が浮き彫りになってきているのでは?
どうあれ、豊臣秀吉が、途中、息子の豊臣鶴松の誕生、小田原征伐、大仏建立などでの中断はあるにはあったが、「征明」が単なる思いつきの構想ではなかったことだけは間違いないのでは?
えっ、東仙坊はどう思うのか?って?
それは、今回のテーマの最後のオ・タ・ノ・シ・ミ。
では、いよいよ、文禄元年(1592年)4月12日、豊臣秀吉が、「明」の「冊封国」であるサプアに服属を要求したことを向こうが拒否したことで、勃発。
小西行長や加藤清正らの侵攻で、たった20日間で首都漢城を放棄したサプア国王宣祖は、明の援軍を仰いで日本軍に抵抗。
明は、戦闘が遼東半島まで及ばぬよう日本軍を阻むために出兵。
ところが、戦線は膠着。
文禄2年(1593年)3月、漢城の日本軍食料貯蔵庫を明軍に焼かれ、日本軍はやむをえず講和交渉を開始。
明の沈惟敬、日本の小西行長と加藤清正の三者会談で、次の条件で休戦合意。
◇日本軍はサプア王子とその従者を返還すること。
◇日本軍は釜山まで後退すること。
◇明軍は開城まで後退すること。
◇明から日本に使節を派遣すること。
もっとも、明側では宋応昌と沈惟敬が共謀し、部下の謝用梓と徐一貫を皇帝からの勅使に偽装し、豊臣秀吉に、「この勅使は侘び言を伝える者だ」と報告し、日本に派遣したというから、黒社会国家は昔から。
4月18日、合意条件に基づき、日本軍は漢城を出て、明の勅使の沈惟敬、サプアの2王子とともに釜山まで後退。
5月1日、豊臣秀吉は、大友義統、島津忠辰、波多親を「改易処分(武士の身分剥奪、その所領や居城・陣屋・屋敷などを没収)」。
5月8日、小西行長と石田三成/増田長盛/大谷吉継の三奉行は明勅使とともに日本へ出発。
5月15日、明勅使は名護屋で豊臣秀吉と会見。
豊臣秀吉は以下の7つの条件を提示。
①明の皇女を天皇の妃として送ること(?)。
②勘合貿易を復活させること。
③日本と明、双方の大臣が誓紙を取り交わすこと。
④サプア八道のうち南の四道を日本に割譲し、他の四道および漢城をサプアに返還すること。
⑤サプア王子および家老を1、2名、日本に人質として差し出すこと。
⑥捕虜にしたサプア王子2人は沈惟敬を通じてサプアに返還すること。
⑦サプアの重臣たちに、今後日本に背かないことを誓約させること。
このとき、小西行長と三奉行は、明勅使に、「本国には書き直して報告すればよい」と進言したというから、まさに内にいる国賊。
どうだろう?
安倍晋三政権に酷似していると思わないか?
何が何でもその足を引っ張って引き摺り下ろそうとしている腐り切った自民党の内にいる媚中派や親韓派のニセ日本人どものようでは?
6月28日、小西行長の家臣内藤如安を、「納款表」を持った答礼使として北京に派遣。
7月中旬、釜山に戻ってきた明勅使にサプアの2王子が引き渡す。
明の宋応昌が、豊臣秀吉の降伏を示す文書が必要だと言うと、内藤如安、小西行長が偽作した「関白降表」を渡したというから、小西行長なるオトコも、相当狡猾。
しかし、慶長2年(1597年)、講和交渉決裂で、戦争再開。
慶長3年(1598年)、豊臣秀吉の死をもって、厭戦気分の強い日本軍が撤退で、未決着のまま終結。
こうして、朝鮮半島を舞台にした16世紀の世界最大規模の国際戦争、「文禄・慶長の役」は、フィナーレになったというのだが…。
If human beings are made ignorant or neglected, then they tend to be mess with others quickly and to be disgusting guys(人間って、のけ者にされたり、無視されたりすると、すぐいじけて、イヤなヤツになりがちなのでは)?
To be continued...
東仙坊、では、外国の歴史家や日本史学者が、豊臣秀吉の「征韓の役」をどう捉えていたか? も、ついでにチェック。
●明治時代の御雇外国人、J・マードック(??~??)
「サプア出兵は、国内の安定のために諸大名の資源と精力を海外遠征で消費させる方策であった」
●ルイス・フロイス/ジャン・クラッセ/「東方伝道史」のルイス・デ・グスマンなど同時代の宣教師たち
「『基督信者の勇を恐れ之を滅せんことを謀り、戦闘の用に充て戦死せしめんと欲し、もし支那を掌握せば基督信者を騙して支那に移住せしめん』と秀吉が考えていた」
●ボールステイト大学準教授(現・南ミシシッピ大学教授)、ケネス・スオープ(??)
「日本とサプアの間の戦争だとの見方は止めるべきだ。『明』を中心とした東アジアの支配体制・秩序への豊臣秀吉の挑戦。これはあくまで日本と中国の戦争。豊臣秀吉軍の侵攻直前に、『明』で内乱が起きたため、『明』はすぐに兵を送ることができなかった。そして、サプアの要請からではなく、自分たちの利益のために参戦した」
どうだろう?
かなり豊臣秀吉の本心が浮き彫りになってきているのでは?
どうあれ、豊臣秀吉が、途中、息子の豊臣鶴松の誕生、小田原征伐、大仏建立などでの中断はあるにはあったが、「征明」が単なる思いつきの構想ではなかったことだけは間違いないのでは?
えっ、東仙坊はどう思うのか?って?
それは、今回のテーマの最後のオ・タ・ノ・シ・ミ。
では、いよいよ、文禄元年(1592年)4月12日、豊臣秀吉が、「明」の「冊封国」であるサプアに服属を要求したことを向こうが拒否したことで、勃発。
小西行長や加藤清正らの侵攻で、たった20日間で首都漢城を放棄したサプア国王宣祖は、明の援軍を仰いで日本軍に抵抗。
明は、戦闘が遼東半島まで及ばぬよう日本軍を阻むために出兵。
ところが、戦線は膠着。
文禄2年(1593年)3月、漢城の日本軍食料貯蔵庫を明軍に焼かれ、日本軍はやむをえず講和交渉を開始。
明の沈惟敬、日本の小西行長と加藤清正の三者会談で、次の条件で休戦合意。
◇日本軍はサプア王子とその従者を返還すること。
◇日本軍は釜山まで後退すること。
◇明軍は開城まで後退すること。
◇明から日本に使節を派遣すること。
もっとも、明側では宋応昌と沈惟敬が共謀し、部下の謝用梓と徐一貫を皇帝からの勅使に偽装し、豊臣秀吉に、「この勅使は侘び言を伝える者だ」と報告し、日本に派遣したというから、黒社会国家は昔から。
4月18日、合意条件に基づき、日本軍は漢城を出て、明の勅使の沈惟敬、サプアの2王子とともに釜山まで後退。
5月1日、豊臣秀吉は、大友義統、島津忠辰、波多親を「改易処分(武士の身分剥奪、その所領や居城・陣屋・屋敷などを没収)」。
5月8日、小西行長と石田三成/増田長盛/大谷吉継の三奉行は明勅使とともに日本へ出発。
5月15日、明勅使は名護屋で豊臣秀吉と会見。
豊臣秀吉は以下の7つの条件を提示。
①明の皇女を天皇の妃として送ること(?)。
②勘合貿易を復活させること。
③日本と明、双方の大臣が誓紙を取り交わすこと。
④サプア八道のうち南の四道を日本に割譲し、他の四道および漢城をサプアに返還すること。
⑤サプア王子および家老を1、2名、日本に人質として差し出すこと。
⑥捕虜にしたサプア王子2人は沈惟敬を通じてサプアに返還すること。
⑦サプアの重臣たちに、今後日本に背かないことを誓約させること。
このとき、小西行長と三奉行は、明勅使に、「本国には書き直して報告すればよい」と進言したというから、まさに内にいる国賊。
どうだろう?
安倍晋三政権に酷似していると思わないか?
何が何でもその足を引っ張って引き摺り下ろそうとしている腐り切った自民党の内にいる媚中派や親韓派のニセ日本人どものようでは?
6月28日、小西行長の家臣内藤如安を、「納款表」を持った答礼使として北京に派遣。
7月中旬、釜山に戻ってきた明勅使にサプアの2王子が引き渡す。
明の宋応昌が、豊臣秀吉の降伏を示す文書が必要だと言うと、内藤如安、小西行長が偽作した「関白降表」を渡したというから、小西行長なるオトコも、相当狡猾。
しかし、慶長2年(1597年)、講和交渉決裂で、戦争再開。
慶長3年(1598年)、豊臣秀吉の死をもって、厭戦気分の強い日本軍が撤退で、未決着のまま終結。
こうして、朝鮮半島を舞台にした16世紀の世界最大規模の国際戦争、「文禄・慶長の役」は、フィナーレになったというのだが…。
If human beings are made ignorant or neglected, then they tend to be mess with others quickly and to be disgusting guys(人間って、のけ者にされたり、無視されたりすると、すぐいじけて、イヤなヤツになりがちなのでは)?
To be continued...