腐乱した大和魂-12 消えゆくサプアへのファイナル弔辞!?
For Hideyoshi Toyotomi who is full of insight and forensic sight, there should be no other person who couldn't be trusted as much as a man(洞察力と鑑識眼に富んだ豊臣秀吉にとって、口先オトコほど信用できない人は他にいなかった)!
東仙坊、豊臣秀吉からの返答である国書を受け取ったサプア通信使どもの一行が、そのバカにし切った上から目線の「明国全体を我が国の習俗に変えてしまおうと思う。自分が明征服の軍を出すときにはサプアもはせ参じるように」というような内容に一応は激怒して見せたものの、それは倭の国からの愚弄だからであって、そうでなければカタチだけの激怒でしかなかったはず。
それが国益などよりも自分益を優先させるサプア人の正体。
実際、戻って豊臣秀吉に「属国ではない」と直接談判しようとはせず、宗義智と玄蘇に文句を言った程度。
しかも、玄蘇が、豊臣秀吉の本意とは異なるウソで誤魔化したので、それを信じた金誠一は誤字と考え、「閣下」、「方物」、「入朝」の文字の書き換えを要求したというから、笑えないか?
一方の黄允吉は、どこかそこに豊臣秀吉の本心を感じ、一刻も早く帰還し報告すべきとそのまま出立。
1591年1月、玄蘇と柳川調信が同行したサプア通信使一行は、対馬に到着。
1591年2月、サプアに帰国。
1591年3月、サプア通信使は、国王に報告。
しかし、彼らが来日中にサプア朝廷では政変が勃発。
西人派の鄭澈が失脚、東人派の柳成龍が左議政。
そのために、黄允吉が「必ず兵禍あらん。倭は、今にも攻めてくる」と戦争が切迫している事実を警告するも、対抗心を剥き出しの金誠一が大袈裟と横やりを入れ、「そのような兆候はない」と主張。
柳成龍が、同じ東人派の金誠一を擁護し彼の意見が正しいことになり、黄允吉の報告を無視。
サプア通信使に同行ししていた軍官、黄進はこれを聞いて激怒し、「金誠一斬るべし」といきり立つも周囲に止められ、ジ・エンド。
ただし、玄蘇と柳川調信が東平館に滞在中、宣慰使(接待役、)呉億齢らは、日本の情勢を聞き出そうと宴。
豊臣秀吉ではなく宗氏の意向を汲む玄蘇は、「明は久しく日本との国交を断ち、朝貢を通じていない。豊臣秀吉はこのことに心中で憤辱を抱き、戦争を起こそうとしている。サプアがまずこのことを奏聞して朝貢の道を開いてくれるならば、きっと何事もないだろう。そして、日本六十六州の民もまた、戦争の労苦を免れることができる」と述べるも、金誠一が大義に背くと批判し口論に発展。
玄蘇、「昔、高麗が元の兵を先導して日本を攻撃した。日本がこの怨みを朝鮮に報いようとするのは当然のことだ」と言うと、みんな沈黙してしまったとか。
その後、サプアはサプアらしく、「倭軍」の能力を根拠なく軽視しただけでなく、外寇などないとタカを括るサプア国内世論の高まりに合わせ、労役を拒否する上奏が出されたというから、ピンボケぶりは昔から同じということか?
そう言えば、この期に及んで、令和元年5月2日、サプアのキチガイ茶髪大統領、「日本が歴史問題を国内政治に利用している。とても残念だ」とほざいたというから、入国禁止にすべきでは?
ともあれ、1591年5月、サプア朝廷は、「日本は朋友の国で、大明は君父である」として「仮途入明(仮道入明:明を攻める際、道を貸せ)」の要求を拒否。
さらに、宗氏が別に要求した斉浦と監浦の開港も拒否。
玄蘇と柳川調信はその国書を手に対馬に戻ったとか。
1591年6月、玄蘇の復命を受け、すぐに宗義智は、豊臣秀吉の使者として(?)、再び渡海し、釜山の辺将に対し、「日本は大明と国交を通じたい。もしサプアがこのコトを明に奏聞してくれるならとても幸いであるが、もしそうしなければ、両国の和平は崩れて大事に至る」と勝手に豊臣秀吉の要求をマイルドにしてまで警告し、再交渉を要望。
辺将はこれを上奏したが、サプア朝廷は、玄蘇らの言動を咎め、豊臣秀吉の国書の傲慢無礼さを憤激していたところだったので、何の返事もナシ。
1591年8月23日、豊臣秀吉が、「唐入り」と称する「征明遠征」の不退転の決意を改めて諸大名に発表。
宇喜多秀家が、真っ先に賛成。
五大老のうち徳川家康は関東にいて不在、他の大老、奉行は豊臣秀吉の怒りを恐れ、不承不承、賛意。
宇喜多秀家は、後に、豊臣秀吉の名代として、総大将。
豊臣秀吉は、帰順したと考えていたサプアを経由して明国境に向かうというこの遠征のために、国を挙げて出師の準備をさらに急ぐように推進。
1591年12月27日、豊臣秀吉は、関白職を内大臣豊臣秀次に譲り、自らは太閤と称して外征に専心。
豊臣秀吉は、「遠征軍宿営地」として「名護屋城(現在の佐賀県唐津市)」築造を指示。
黒田孝高に縄張りを命じて、浅野長政を総奉行とし、九州の諸大名に普請を分担。
壱岐を領する松浦隆信にも、勝本に「前哨基地」となる「風本城」築城を命令。
「名護屋城」の建設予定地は、松浦党の旗頭の波多氏の領土で、あのルイス・フロイスまでが、「あらゆる人手を欠いた荒れ地」と評した場所だったが、完成した名護屋城には全国より大名衆が集結し、「野も山も空いたところがない」と水戸の平塚滝俊が書状に記したほど活況を呈し、「唐入り」の期間は日本の政治経済の中心となったとも。
1592年、すなわち、文禄元年正月、総21軍に分けられた約30万(?)よりなる「征明軍」の編成。
宗義智とその義父(正室が小西行長の娘)である小西行長とが、まずサプア帰服の様子を確かめるべきだと進言したせいで、計画は急遽、中止。
これは、彼らが、サプア通信使がきたことだけをもってサプアが入朝したとウソをついてコトを進めていたことを、豊臣秀吉が度外視して「明征服」を実行に移そうとしていたことに不安を覚えたためだとか。
それはそうである。
目先のサプアの利権独占していただけの彼らは、「カタチだけでいいから、通信使を京都に派遣してくれ」とサプアに頼んでいたとか。
それゆえ、小西行長はウソを取り繕うために帰服したサプアが変心したとサプア人のように新たなウソをつき、「サプアが『征明軍』に道と城を貸すのを拒否している」とまで言ったとか。
サプア交渉で面目を失った小西行長は、その責任をすべてサプア側に転嫁し、「平伏して最後の交渉と相手が従わぬ場合には、自らが先鋒を務める」と豊臣秀吉に願い出たとか。
1592年1月18日、豊臣秀吉はそれを許し、両名に3月末までに様子を見極め復命するよう指示。
もしサプアが従わないのならば、1592年4月1日になったらまずサプアから『御退治あるべし」と出征開始の号令。
最後通牒の役目を担った宗義智と玄蘇は、慌てて渡海し、改めてサプア国王が入朝して服属するか、さもなくばサプアが「征明軍」の通過を許可するように交渉。
期日を過ぎて10日間も待ったが、サプアからイロヨイ返事はナシ。
そこで、やむをえず、彼らは説得を断念。
1592年4月7日、対馬へ帰還し、サプア側の拒絶の意志を豊臣秀吉に伝えたとか。
すると、釜山浦の倭館に常時滞在していた日本人がたちまち帰国。
そう、これによって「征明軍」は、「征韓軍」となったのである。
Hideyoshi Toyotomi has never considered Korea's economic slump as a country that has never been equal to them(豊臣秀吉は、経済の疲弊し切ったサプアをただの一度も自分たちと対等な国だと思ったことはなかった)!
To be continued...