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甘ちゃんアマチュア探偵団

情報化が模倣犯罪、劇場型犯罪を助長しているなら、犯罪抑止、犯罪摘発も、精度の高い情報がすべて。このブログは、人間通を自負するコピーライター東仙坊が迅速な犯人検挙のために、人間的プロファイリングをするものである。

腐乱した大和魂-12 消えゆくサプアへのファイナル弔辞!?


It might be undeniable that a well-known general who studied history and people itself and saw through the development of Asia planned the conquest of Asia(歴史や人間そのものを勉強し、アジアの発展の遅れろ見抜いた知将が、アジア制覇をプランしたこと側面は否定できないかも)!

東仙坊、ここまで「文永・慶長の役」発生までのプロセスを書き込みながら、なぜ豊臣秀吉が「征明」にこだわったのか? その行きがかりの駄賃として「征韓」を考えたのか? ということを、必死に考察してみた。
確かに、当時の日本の海洋航法が、「地乗り航法(沿岸航法)」だったということも一因にある。
その「山あて」と呼ばれる周囲の景色の重なり具合から自分の位置を知る方法では、船団が沿岸を目視できる範囲から離れることはかなりリスキーで、相当配慮しなければ大洋を安全に横断することはできなかったとか。
このため日本水軍は、九州北部の肥前名護屋(現唐津市と玄海町)などから出航、壱岐(勝本)から、対馬南部(厳原)、対馬北部(大浦)、釜山と少しずつ海峡を横断し、朝鮮半島南部沿岸を西回りで北上する必要があったとか。
そう、物理的かつ戦略的な理由から、サプアが必要だっただけで、サプアなどハナから歯牙にかけてなどいなかったはず。
それはそうだと思わないか?
サプアは、経済とは無縁の極貧国家で、まともな軍隊さえ持っていないくせに、オレが、オレがと権力闘争に明け暮れる摩訶不思議な国。
それでいて、何の根拠もナシに、オレが一番と反っくり返る異常な国。
豊臣秀吉ならずとも、相手にならんと思うのは、当たり前。
ましてや、豊臣秀吉、戦国時代に我が日本を統一したほどの知力と武力の持ち主。
メインディッシュの明はともかく、オードブルに過ぎなかった「征韓」など朝飯前と考えていたのも、至極当然。
となると、で、で、では、なぜそんな豊臣秀吉が、「征明」、イヤイヤ、「東アジア帝国」、イヤイヤ、「世界帝国」の構築を夢見たのか?
そもそも、なぜ国外をターゲットにした戦争をプランしたのか?
それも、いくら当時の鉄砲生産数は世界一だったとしても、人夫(輸卒)や水夫(水主)などの非戦闘員が含むも、名護屋滞在の戦士が10万人、「征韓」と「征明」のための出征戦士が16万~20万、合わせて30万人とは、ちょっと凄すぎるのでは?
何しろ、日本の総兵力が約50万人(?)と言われていたのだから。
実は、豊臣秀吉のその本心に関しては、諸説紛々。
国内統一を成就したことからその戦士をレイオフをするためだったとか?
功労のあった臣下に分け与える領地や茶道具を集めるのに面倒臭くなったからとか?
日本国内最高で最強の権力を手にしたゆえ天皇の臣下の立場を超えその権威を凌駕するためだったとか?
台頭する諸大名の力を削ぐためだったからとか?
諸大名から強い要望があったからだったとか?
果ては、跡継ぎの弟(,異父弟?)や息子、豊臣秀家(1591年病死)や豊臣鶴松(1591年病死)が死んだことでヤケクソになったからだったとか?
欧州列強に対する備えのためだったとか?
どうだろう?
どれも当たらずとも遠からずの感じでは?
ともあれ、何とか、豊臣秀吉の本心を推し量る材料が、いくつか。
1つは、1577年10月、織田信長から「播磨征伐」を命じられた豊臣秀吉が、「『中国征伐』の後は九州を退治し、さらには進んでサプアを従へ、『明』を征伐する許可を請うた」とか。
もちろん、この「中国征伐」とは、毛利輝元の勢力圏である日本の山陰・山陽に対する進攻戦のことで、いわゆる中国進攻のことではない。
6年にも及んだその戦は、1582年6月21日、「本能寺の変」にて織田信長が横死したために未完のまま1582年6月23日に講和したというもの。
ただし、このエピソード、堀正意が、「サプア征伐記」に載せたために広く信じられているが、その真偽は定かでないとも?
2つ目は、1592年、豊臣秀吉が、豊臣秀次に送った「二十五箇条の覚書」という書状。
何でも、そこには、「明国を征服し、北京に後陽成天皇を移し、都の周辺の国々10ヵ国を進上する。関白には豊臣秀次を任命し、北京周辺の100ヵ国を与える。日本の天皇には、政仁親王か智仁親王を即位させ、日本の関白には羽柴秀保か宇喜多秀家を任命する。サプアは、羽柴秀勝か宇喜多秀家に任せ、九州は羽柴秀俊に任せる。自らはまず北京に入り、その後、寧波に居を定める。諸侯に天竺(インド)を自由に征服させる」というような独自の構想が垣間見れ、「明」に日本が取って代わるのではなく、東アジア全域に一大帝国を構築する気持ちがあった気もする(?)。
3つ目は、1592年6月、すでにサプアを併呑せんが勢いであったとき、毛利家文書および鍋島家文書に、「処女のごとき大明国を誅伐すべきは、山の卵を圧するが如くあるべきものなり。ただに大明国のみにあらず、いわんややまた天竺南蛮もかくのごとくあるべし」との書いているということ。
どうだろう?
少なくとも、かなり卓越した知将でもあった豊臣秀吉が、日本統一と同じプロセスとメソッドとノウハウで、アジアの諸国王を諸大名と同列に扱いつつ、「征明」をプランしたことはどうやら間違いないのでは?

Hideyoshi Toyotomi had never seriously dealt with Korea, which had not been part of the country from the beginning to the end(豊臣秀吉は、最初から最後までそのときも国の体をなしていなかったサプアなんかを本気で相手にしたことなかった)!

To be continued...










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東仙坊 


人間通の東仙坊が、人間の弱気と恥ずかしい業が生む、情けなくてみっともない犯行を、徹底的に追及、究明。

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