腐乱した大和魂-12 消えゆくサプアへのファイナル弔辞!?
It must be Korea, a strange country, who wanna be clearer than Japan from the past until it was clearly forged history(歴史を明らかに捏造してまで昔から日本よりもスバらしい国だったということにしたがる、世にも不思議な国がサプア)!
⑭1591年5月、宗主国である明に懸命におもねるサプア、「征明の先導役をやれ!」という豊臣秀吉の国書を受け、明に奏聞するべきか右往左往。
と、と、ところが、明では、すでに4月に琉球を訪れた商人陳申が通報し、それが福建と浙江の巡撫という地方官僚を介し、「日本が明侵攻を計画しサプアがその先導役となる」という正式な報告として受け取っていたというから、サプアがお気の毒。
どうだろう?
今のサプアと瓜二つなのでは?
1591年8月、それでも、明は、来訪した金応南の説明に満足し、サプア節使を慰労して銀2万両を授与。
そ、そ、そうしたら、タイミング悪く、遼東都司から征明嚮導の真偽を詰問する文書が、同じころにサプア朝廷に届いて、またまた慌てふためいてウロウロ。
サプア朝廷は、柳成龍と崔岦が作成したサプア国王名義の「陳倭情報奏文」を韓応寅に持たせて急派。
1591年9月、薩摩の在日明国人の医師許儀俊の「すでにサプアは日本に服属して征明嚮導に協力しようとしている」というオイウチとなる報告が明にあり、また琉球王国からも使者がきて奏聞。
それだけじゃない。
鄭迥や蘇八といった帰化中国人の複数の情報筋からも、「サプアが日本に服属した」という報告が明に挙がる。
それでも、白々しく、サプア通信使を日本に送った事実はひた隠しにしたまま、1592年、明の朝廷に陳奏文が提出し、改めて日朝交渉の経緯を釈明。
そして、今同様、責任を他人に押しつける得意の戦法で、「中国人による通報などはサプアに対する誣告だ」と大声を上げ、「日本の出兵計画などとんでもないことだ。そんな大それたことなどするはずはない。ウソだ」と言いくるめようとするも、明が「征明嚮導」の疑念を払拭するには至らず、戦役が起こった後も、明の猜疑心は消えなかったとか。
それどころか、サプアがないと言っていたサプア出兵が現実のものとなったことで明側の疑念はさらに深まり、遼東の明将らはサプア朝廷を難詰し、指揮権の統一にも反対し、サプア民衆の日本軍協力を疑い、サプアに対しては一定の距離を置いたとか。
⑮1598年、豊臣秀吉の死で、なんとか「文禄・慶長の役」は終結するも、戦乱でさらに疲弊したサプア朝廷の内乱は未収束どころか、ますます拡大。
権威の後ろ盾を明に求めた李成桂は、軍師であった鄭道伝の進言により、国内を、仏教を崇めた「高麗」時代とは一転して、朱子学を国教化。
しかし、鄭道伝自身が王子の序列争いに巻き込まれて斬首されてしまったとか。
兄たちを蹴落として王位を奪った李芳遠の後を継いだ世宗以後の君主は、平和に腐心して儒学思想を極端に信奉。
そうすると、自然に、人臣の間に家長的名文主義や排他主義が蔓延。
官人となるためには誰もが儒学を学ばねばならなかったが、書院ごとに儒生は徒党をなして、官人になってからも先輩につき従って政権掌握を目指すようになって、士禍と党争が激化。
勲旧派(中央貴族層)vs士林派(新興両班層)。
士林派から分裂した東人派(改革)vs西人派(保守)。
東人派はさらに南人派vs北人派。
サプア朝廷の秩序はグジャグジャ、王や后、王子、外戚、中央と地方の両班が、絶え間ない勢力争いに明け暮れ、陰謀や粛清を数世紀に渡って続け、国力は浪費され、人臣には混乱が生じ、国家は衰退。
その典型が、茶髪大統領に似た、サプア王、宣祖(李昖)。
コヤツ、儒学の発展と講学には非常に熱心であったが、極端に権威主義的で、しばしば逆鱗に触れて家臣に厳罰を降す気まぐれな王で、政治に飽き、徳がなく、人民に好かれていなかっただけでなく、いくつもの致命的な判断の誤りを犯していたとか。
どうだろう?
ソックリでは?
ちなみに、サプア王朝官僚で、豊臣秀吉に謁見したことのある金誠一(1538~1593)、「鶴峯集」で、「倭奴幾ばくもなし、半ばは叛民、極めて寒心すべし(日本人はまもなく反乱者。メチャクチャ気にすべし)」と言いつつも、日本は「征韓」などしないとミスジャッジ。
サプア王朝正史「宣祖実録(1603年)」には、「人心怨叛し、倭と同心」、「賊兵の数、半ばは我国人というが、然るか」。
李烱錫の「壬辰戦乱史(1977年)で、「李氏朝鮮が、『分党政治と紀綱の紊乱、社会制度の弊害と道義観の堕落、朝臣の無能と実践力の微弱性、軽武思想と安逸な姑息性、事大思想と他力依存性、国防政策の貧困』などの弱点を露呈していたことが侵略を受ける間接的要因となった」
ここでの重要なポイントは、江戸時代末期に日本で書かれた「征韓偉略」によると、「豊臣秀吉の軍隊が漢城に入城したとき、日本の兵士の半ばはサプアの民だった」ということ。
⑯1636年、中国本国を攻略前の清に攻められ、サプア国王が皇帝に三跪九叩頭(サンキキュウコウトウ)させられ、清の完全従属国家。
この後、日本が「日清戦争」で清を破る、1897年まで、サプアは非独立国家。
そして、「大韓帝国」になるも、1910年、日韓併合。
1948年、第二次世界大戦の日本の敗戦で、「大韓民国」が成立。
The Korean peninsula is from China, a large and permanent country. If so, we shouldn't be involved with the Korean peninsula(朝鮮半島は恒久不変に大国である中国のもの。そうだとするなら、我々は余計に朝鮮半島と関わるべきではない)!
To be continued...