腐乱した大和魂-12 消えゆくサプアへのファイナル弔辞!?
You are a USA citizen who escapes from impetus and poverty and becomes an American citizen, while being a sneaky man who is making a new home for the country and taking on terrorism for the sake of his country, is it so strange(自分はそそくさと貧しさから逃れUSA市民になりながら、その豊かさの恩恵を受けつつ祖国のために新たな自国で陰険なテロを行う卑劣な人って、凄く変)?
東仙坊、すでに書いたつもりだが、最終的にサプアのストーカー気質丸出しのどこまでの執拗でエモーショナルな反日を阻止するには、我が国の内にいるサプアになぜか媚びたり、おもねったりし続けるニセ日本人どもに改心してもらうしかないと結論している。
なかでも、サプアとの二重国籍を持つ在日サプア人方々に、とにかく母国よりも日本が好きだから、日本で暮らしたいと本気で思っているとか、日本人そのものになりたいと正直に告白してもらいたい。
そして、日本人の一人として、日本がより世界から好かれるように自分も貢献したいと宣言してもらいたい。
そんな気持ちで、ダラダラ今回のテーマを続けてきているのだが、率直に言って、そろそろ本気で飽きてきた。
そこで、サプア人に、とりわけ、在日サプア人に普通の人間になってほしくて、サンザン理解しようと努力してもどうしても理解できない、そのサプア人の不可思議なマインドを検証し、いよいよエンディングにしたい。
また、サプア人の我が日本人への「恨」がその心の芯に根づいたのが、なぜ豊臣秀吉のサプア出兵だったかのかということを明確に解析しておきたい。
貧しい国に住む人が豊かな国に行って自分たちもそれなりの生活をしたいと夢見るのは、自明の理。
ましてや、これだけの貧富の差が激しくなった格差社会では、ますますその傾向が強まるばかり。
何とか喰って生きたいと願う「移民」、いわゆる「経済難民」がワンサカ増えるのは、自然の摂理、そして、世界の抱える根本問題。
そう、今、まさに世界を揺るがしている「ニセ人道問題」。
それはそうだと思わないか?
このうえなく貧しい人たちが、言葉もわからず、技能もないのに、豊かなんだからオレたちにも喰わせろ!と逆脅迫しているようなもの。
とりわけ、密航や違法移住してくるヒトたちは、実質的に犯罪者なのでは?
ともあれ、それで、メチャクチャ不可解なのが、2人のサプアからUSAへの移民。
1人が、1875年平壌生まれの張仁煥。
コヤツ、1905年、サプアからハワイへ、1906年、ハワイからUSA本土(サンフランシスコ?)へ移住。
そして、ロクに英語を喋れず仕事もしないまま、サプア独立運動組織「大同保国会」に所属。
もう1人が、1884年ソウル生まれの田明雲。
コヤツ、1903年、サプアからハワイへ、1904年、ハワイからUSA本土(サンフランシスコ?)へ移住。
そして、同じくロクに英語を喋れず仕事もしないまま、安昌浩が創立したベイエリアのサプア系USA人団体「共立協会」に所属。
ちなみに、2人ともUSAに帰化していたとか。
さて、1851年、ワシントンD.C.で生まれ育ち、オハイオ州のオーバリン大学卒業後、コロンビア大学とハワード大学で法律を学び、1873年、コロンビア特別区弁護士会に入会、1873年、国務省に入省、ユリシーズ・グラント大統領にUSA公使館書記官に任命され1883年まで勤務した、ダーハム・ホワイト・スティーブンスなるUSA人がいたとか。
このお方、その後、USAに帰国すると、ワシントンの日本公使館で、英語の書記官に着任。
それから、1884年、東京で外務省勤務。
1884~1885年、井上馨外務卿に同行しサプアに渡り、サプアで日本人居留民が殺害された「甲申政変」に関する交渉を補助。
この功績で、明治天皇より「勲三等旭日中綬章」を授与。
そして、公使館名誉顧問としてワシントンで在USA公使、陸奥宗光の下で勤務。
それから、日本が独立国として主権を行使する権利を認めた初の条約であるメキシコとの「日墨修好通商条約締結」を補助。
1894年、日清戦争開戦と同時に、雑誌「ノース・アメリカン・レビュー」に、「清の保守主義の腐敗がサプアの発展を妨げた。清のサプアにおける影響力が減少しそれに応じて日本の力が増大することでサプアの社会的、商業的な改革に繋がる」と日清戦争を正当化。
その功績で、「勲二等瑞宝章」を授与。
ついでに、このお方、「勲二等旭日重光章」と「勲一等瑞宝章」も授与。
1904年、第一次日韓協約締結されると、サプアは日本政府の推薦する外国人1名を外交顧問に任命する義務。
そのために、駐サプアアメリカ公使ホレイス・アレンによる1901年の推薦に基づき、日本政府はこのお方を外交顧問に任命するようサプア政府に推薦。
1904年、サプアの外交顧問に就任。
「日本にとって不愉快でない、または日本の威厳に影響しない方法で実行できるのであれば、日本はUSAへの日本人移民流入を制限する法律の制定を歓迎しハワイへの移住停止に賛成するだろう」とか、「日本政府は代わりに移民をサプアまたは中国東北部に定住させることを望んでいる」などと発言。
1908年3月、このお方がUSAに戻り、サンフランシスコの新聞のインタビューに応え、「サプアにおける日本の影響力と保護が強化されることでサプア国民は利益を得ており、現状では『liberated country(解放された自由な国)』にはあたらないが、生活は安定し日本の保護政策を歓迎している」と言ったことに、なぜかブチ切れたサプア独立運動組織「大同保国会」とベイエリアのサプア系USA人団体「共立協会」が合同会議。
そ、そ、そして、こともあろうにUSAで生活しているのに平然とこのお方へのテロを計画。
そう、サプア系USA人(?)活動家による欧米での最初の政治的暗殺…。
1908年3月22日、その合同会議で選出された(?)4人のサプア系USA人(張仁煥と田明雲が含まれた)が、サンフランシスコのフェアモント・ホテルにいたこのお方を訪問。
The motherfuckers who could kill the people without feeling must be basically abnormal(情念のままに人殺しができる残忍な民族は、基本的に異常)!
To be continued...
東仙坊、すでに書いたつもりだが、最終的にサプアのストーカー気質丸出しのどこまでの執拗でエモーショナルな反日を阻止するには、我が国の内にいるサプアになぜか媚びたり、おもねったりし続けるニセ日本人どもに改心してもらうしかないと結論している。
なかでも、サプアとの二重国籍を持つ在日サプア人方々に、とにかく母国よりも日本が好きだから、日本で暮らしたいと本気で思っているとか、日本人そのものになりたいと正直に告白してもらいたい。
そして、日本人の一人として、日本がより世界から好かれるように自分も貢献したいと宣言してもらいたい。
そんな気持ちで、ダラダラ今回のテーマを続けてきているのだが、率直に言って、そろそろ本気で飽きてきた。
そこで、サプア人に、とりわけ、在日サプア人に普通の人間になってほしくて、サンザン理解しようと努力してもどうしても理解できない、そのサプア人の不可思議なマインドを検証し、いよいよエンディングにしたい。
また、サプア人の我が日本人への「恨」がその心の芯に根づいたのが、なぜ豊臣秀吉のサプア出兵だったかのかということを明確に解析しておきたい。
貧しい国に住む人が豊かな国に行って自分たちもそれなりの生活をしたいと夢見るのは、自明の理。
ましてや、これだけの貧富の差が激しくなった格差社会では、ますますその傾向が強まるばかり。
何とか喰って生きたいと願う「移民」、いわゆる「経済難民」がワンサカ増えるのは、自然の摂理、そして、世界の抱える根本問題。
そう、今、まさに世界を揺るがしている「ニセ人道問題」。
それはそうだと思わないか?
このうえなく貧しい人たちが、言葉もわからず、技能もないのに、豊かなんだからオレたちにも喰わせろ!と逆脅迫しているようなもの。
とりわけ、密航や違法移住してくるヒトたちは、実質的に犯罪者なのでは?
ともあれ、それで、メチャクチャ不可解なのが、2人のサプアからUSAへの移民。
1人が、1875年平壌生まれの張仁煥。
コヤツ、1905年、サプアからハワイへ、1906年、ハワイからUSA本土(サンフランシスコ?)へ移住。
そして、ロクに英語を喋れず仕事もしないまま、サプア独立運動組織「大同保国会」に所属。
もう1人が、1884年ソウル生まれの田明雲。
コヤツ、1903年、サプアからハワイへ、1904年、ハワイからUSA本土(サンフランシスコ?)へ移住。
そして、同じくロクに英語を喋れず仕事もしないまま、安昌浩が創立したベイエリアのサプア系USA人団体「共立協会」に所属。
ちなみに、2人ともUSAに帰化していたとか。
さて、1851年、ワシントンD.C.で生まれ育ち、オハイオ州のオーバリン大学卒業後、コロンビア大学とハワード大学で法律を学び、1873年、コロンビア特別区弁護士会に入会、1873年、国務省に入省、ユリシーズ・グラント大統領にUSA公使館書記官に任命され1883年まで勤務した、ダーハム・ホワイト・スティーブンスなるUSA人がいたとか。
このお方、その後、USAに帰国すると、ワシントンの日本公使館で、英語の書記官に着任。
それから、1884年、東京で外務省勤務。
1884~1885年、井上馨外務卿に同行しサプアに渡り、サプアで日本人居留民が殺害された「甲申政変」に関する交渉を補助。
この功績で、明治天皇より「勲三等旭日中綬章」を授与。
そして、公使館名誉顧問としてワシントンで在USA公使、陸奥宗光の下で勤務。
それから、日本が独立国として主権を行使する権利を認めた初の条約であるメキシコとの「日墨修好通商条約締結」を補助。
1894年、日清戦争開戦と同時に、雑誌「ノース・アメリカン・レビュー」に、「清の保守主義の腐敗がサプアの発展を妨げた。清のサプアにおける影響力が減少しそれに応じて日本の力が増大することでサプアの社会的、商業的な改革に繋がる」と日清戦争を正当化。
その功績で、「勲二等瑞宝章」を授与。
ついでに、このお方、「勲二等旭日重光章」と「勲一等瑞宝章」も授与。
1904年、第一次日韓協約締結されると、サプアは日本政府の推薦する外国人1名を外交顧問に任命する義務。
そのために、駐サプアアメリカ公使ホレイス・アレンによる1901年の推薦に基づき、日本政府はこのお方を外交顧問に任命するようサプア政府に推薦。
1904年、サプアの外交顧問に就任。
「日本にとって不愉快でない、または日本の威厳に影響しない方法で実行できるのであれば、日本はUSAへの日本人移民流入を制限する法律の制定を歓迎しハワイへの移住停止に賛成するだろう」とか、「日本政府は代わりに移民をサプアまたは中国東北部に定住させることを望んでいる」などと発言。
1908年3月、このお方がUSAに戻り、サンフランシスコの新聞のインタビューに応え、「サプアにおける日本の影響力と保護が強化されることでサプア国民は利益を得ており、現状では『liberated country(解放された自由な国)』にはあたらないが、生活は安定し日本の保護政策を歓迎している」と言ったことに、なぜかブチ切れたサプア独立運動組織「大同保国会」とベイエリアのサプア系USA人団体「共立協会」が合同会議。
そ、そ、そして、こともあろうにUSAで生活しているのに平然とこのお方へのテロを計画。
そう、サプア系USA人(?)活動家による欧米での最初の政治的暗殺…。
1908年3月22日、その合同会議で選出された(?)4人のサプア系USA人(張仁煥と田明雲が含まれた)が、サンフランシスコのフェアモント・ホテルにいたこのお方を訪問。
The motherfuckers who could kill the people without feeling must be basically abnormal(情念のままに人殺しができる残忍な民族は、基本的に異常)!
To be continued...