腐乱した大和魂-12 消えゆくサプアへのファイナル弔辞!?
How many Koreans who don't learn know that Samsung must be a Japanese imitation company by managers who studied at a Japanese university(学習しないサプア人たちは、サムソンが日本の大学で学んだ経営者たちによる何から何まで日本の模倣企業だと知っているのか)?
東仙坊、このテーマの書き込みを始めてから、なぜかサプアの「何でも日本のせい、日本が悪いから攻撃」が顕著になってしまって、なかなか終えることができずに、かなりのフラストレーション。
そして、つくづく痛感していることは、我が国の教育も劣悪だけどサプアの教育は最悪ということ。
なぜできる限り真実を知ろうとしないのか?
なぜ真実を真実として認められないのか?
ウソにウソの上塗りまでして自分たちの捏造の歴史を糊塗して何がオモシロいのか?
それで、ふと思ったことがある。
それは、もしかして、サプアのヤングどもはもちろん、我が国のヤングどもも、サムソンなるサプア企業が今のような大財閥企業にどうしてなれたのかということさえ知らないのでは?という疑念。
そこで、簡潔に、サムソンの正史をご紹介。
①1938年、日本統治時代のサプアで、早稲田大学中退の李秉喆が、食品と衣服の三星商会を設立。
②1969年、三星電子工業株式会社を創業。
③1969年、三洋電機のサプアでのジョイントベンチャーとして、電子産業の三星三洋電機株式会社を設立。
④1970年、 NECのサプアでのジョイントベンチャーとして、白物家電とAV機器の三星NEC株式会社を設立。
⑤1973年、三星三洋電子株式会社を設立。
⑥1974年、三星電子株式会社東京事務所を開設。
⑦1975年、三星ジャパン株式会社を設立。
⑧1983年、 三星電子株式会社東京支店を開設。
この間、特筆すべきは、創業者の李秉喆(イ・ビョンチョル)の徹底したパクリ戦術。
何しろ、毎年末年始、箱根の自分の別荘に閉じ籠もり、日本の電子機器の技術や需要動向に関する山のような資料を分析し、新年の経営戦略を立案したというのである。
そして、この年、「資源がほとんどないサプアの自然条件に適合して、付加価値が高く高度な技術を要する製品を開発することが第2の跳躍を図る唯一の道だ」と表明し、半導体で先行する日本を目標とする「東京宣言」を発表し、DRAM事業に進出したこと。
すると、なぜか日本からサプアへ半導体製造装置の輸入開始。
実は、サムソンの日本丸パクリ戦略には、日本人のお人好しの性格が強力な味方になっていた。
「お客様は神様」とカストマー・オリエンティドやカストマー・セントリックを具体的に実践する日本の製造装置メーカーは、セールスを行う過程で、その使い方を手取り足取りメチャクチャ丁寧に教えたのである。
しかも、製造装置には、すでに日米の半導体メーカーと製造装置メーカーが長い時間をかけ、すり合わせて作り上げたノウハウがびっちり。
それゆえ、日本やUSAの半導体メーカーに内在する知財をスピーディーに吸収することができたというのである。
それ以上に効果的だったのが、情報収集だけでなく人材スカウトの戦略拠点そのものでしかない日本に設けた事務所や支店とか。
⑨1984年、Micronより設計技術移転の支援を受け、Micronと東芝に続く世界で3番目の64kのDRAMを開発。
ちなみに、東芝の舛岡富士雄が、1984年、世界初のNOR型フラッシュメモリを開発、1985年、世界初の1M DRAMを開発、1987年、世界初のNAND型フラッシュメモリを開発している。
⑩1986年、東芝半導体事業本部長川西剛は、国際担当専務の仲介で三星電子会長や幹部総出のVIP歓迎を受け建設途中の半導体工場を視察し、その見返りに当時世界最大容量1メガビットDRAMを開発中の最新鋭大分工場を見学させているとか。
すると、なぜか三星電子も1メガビットDRAMを開発し、東芝大分工場生産ライン統括担当製造部長をスカウトして大分工場と同等設備を有する製造工場を建設。
⑪1987年、創業者の李秉喆の死去にともない、その三男の早稲田大学商学部卒業の李健熙(イ・ゴンヒ)が2代目会長に就任。
⑫1988年、2代目会長李健煕が、「量より質を重視し、変化と改革を求める(?)」という新しい経営理念、「第2創業」を宣言。
⑬1988年、携帯電話を開発。
⑭1991年、半導体企業トップ10社中6社を独占していた日本の半導体メーカーが、バブル崩壊による資金繰悪化でメモリー事業撤退や工場閉鎖。
そこで、サプア政府のバックアップを受け、東芝、松下電器、三洋電機、シャープ、NECなどからリストラされた日本人技術者を積極的に高給でヘッドハンティング。
その結果、日本人技術顧問が外国人技術者中77名と大半を占めることになり、濡れ手に粟で最新技術を獲得。
⑮1992年、世界初の64M DRAMの開発に成功。
また、10.4インチのTFT液晶モニタも開発。
さらに、東芝とフラッシュメモリの共同開発と技術仕様・製品情報の供与契約を締結。
⑯1993年、、サプア初の6メガバイトフラッシュメモリを開発。
そして、DRAM市場で13.5%のシェアを確保し、12.8%に留まった日本の東芝を抜いて、ついにシェア世界1位。
それから、2代目会長が、「新経営」宣言。
⑰1995年、東芝と64メガビットフラッシュメモリ技術の共同開発。
⑱1998年、日本サムスンを設立。
Fake Japanese who sell souls for money and women and work for Samsung! Please be happy forever(金や女のために魂を売ってサムソンのために働いているニセ日本たちよ! どうかいつまでもお幸せに…)!
To be continued...
東仙坊、このテーマの書き込みを始めてから、なぜかサプアの「何でも日本のせい、日本が悪いから攻撃」が顕著になってしまって、なかなか終えることができずに、かなりのフラストレーション。
そして、つくづく痛感していることは、我が国の教育も劣悪だけどサプアの教育は最悪ということ。
なぜできる限り真実を知ろうとしないのか?
なぜ真実を真実として認められないのか?
ウソにウソの上塗りまでして自分たちの捏造の歴史を糊塗して何がオモシロいのか?
それで、ふと思ったことがある。
それは、もしかして、サプアのヤングどもはもちろん、我が国のヤングどもも、サムソンなるサプア企業が今のような大財閥企業にどうしてなれたのかということさえ知らないのでは?という疑念。
そこで、簡潔に、サムソンの正史をご紹介。
①1938年、日本統治時代のサプアで、早稲田大学中退の李秉喆が、食品と衣服の三星商会を設立。
②1969年、三星電子工業株式会社を創業。
③1969年、三洋電機のサプアでのジョイントベンチャーとして、電子産業の三星三洋電機株式会社を設立。
④1970年、 NECのサプアでのジョイントベンチャーとして、白物家電とAV機器の三星NEC株式会社を設立。
⑤1973年、三星三洋電子株式会社を設立。
⑥1974年、三星電子株式会社東京事務所を開設。
⑦1975年、三星ジャパン株式会社を設立。
⑧1983年、 三星電子株式会社東京支店を開設。
この間、特筆すべきは、創業者の李秉喆(イ・ビョンチョル)の徹底したパクリ戦術。
何しろ、毎年末年始、箱根の自分の別荘に閉じ籠もり、日本の電子機器の技術や需要動向に関する山のような資料を分析し、新年の経営戦略を立案したというのである。
そして、この年、「資源がほとんどないサプアの自然条件に適合して、付加価値が高く高度な技術を要する製品を開発することが第2の跳躍を図る唯一の道だ」と表明し、半導体で先行する日本を目標とする「東京宣言」を発表し、DRAM事業に進出したこと。
すると、なぜか日本からサプアへ半導体製造装置の輸入開始。
実は、サムソンの日本丸パクリ戦略には、日本人のお人好しの性格が強力な味方になっていた。
「お客様は神様」とカストマー・オリエンティドやカストマー・セントリックを具体的に実践する日本の製造装置メーカーは、セールスを行う過程で、その使い方を手取り足取りメチャクチャ丁寧に教えたのである。
しかも、製造装置には、すでに日米の半導体メーカーと製造装置メーカーが長い時間をかけ、すり合わせて作り上げたノウハウがびっちり。
それゆえ、日本やUSAの半導体メーカーに内在する知財をスピーディーに吸収することができたというのである。
それ以上に効果的だったのが、情報収集だけでなく人材スカウトの戦略拠点そのものでしかない日本に設けた事務所や支店とか。
⑨1984年、Micronより設計技術移転の支援を受け、Micronと東芝に続く世界で3番目の64kのDRAMを開発。
ちなみに、東芝の舛岡富士雄が、1984年、世界初のNOR型フラッシュメモリを開発、1985年、世界初の1M DRAMを開発、1987年、世界初のNAND型フラッシュメモリを開発している。
⑩1986年、東芝半導体事業本部長川西剛は、国際担当専務の仲介で三星電子会長や幹部総出のVIP歓迎を受け建設途中の半導体工場を視察し、その見返りに当時世界最大容量1メガビットDRAMを開発中の最新鋭大分工場を見学させているとか。
すると、なぜか三星電子も1メガビットDRAMを開発し、東芝大分工場生産ライン統括担当製造部長をスカウトして大分工場と同等設備を有する製造工場を建設。
⑪1987年、創業者の李秉喆の死去にともない、その三男の早稲田大学商学部卒業の李健熙(イ・ゴンヒ)が2代目会長に就任。
⑫1988年、2代目会長李健煕が、「量より質を重視し、変化と改革を求める(?)」という新しい経営理念、「第2創業」を宣言。
⑬1988年、携帯電話を開発。
⑭1991年、半導体企業トップ10社中6社を独占していた日本の半導体メーカーが、バブル崩壊による資金繰悪化でメモリー事業撤退や工場閉鎖。
そこで、サプア政府のバックアップを受け、東芝、松下電器、三洋電機、シャープ、NECなどからリストラされた日本人技術者を積極的に高給でヘッドハンティング。
その結果、日本人技術顧問が外国人技術者中77名と大半を占めることになり、濡れ手に粟で最新技術を獲得。
⑮1992年、世界初の64M DRAMの開発に成功。
また、10.4インチのTFT液晶モニタも開発。
さらに、東芝とフラッシュメモリの共同開発と技術仕様・製品情報の供与契約を締結。
⑯1993年、、サプア初の6メガバイトフラッシュメモリを開発。
そして、DRAM市場で13.5%のシェアを確保し、12.8%に留まった日本の東芝を抜いて、ついにシェア世界1位。
それから、2代目会長が、「新経営」宣言。
⑰1995年、東芝と64メガビットフラッシュメモリ技術の共同開発。
⑱1998年、日本サムスンを設立。
Fake Japanese who sell souls for money and women and work for Samsung! Please be happy forever(金や女のために魂を売ってサムソンのために働いているニセ日本たちよ! どうかいつまでもお幸せに…)!
To be continued...