恒久不変な日本砂漠-46 本当に地球上の人間社会は「ワンチーム」なのか?
Let's seriously review yourself on the holy night(聖夜に、本気で自分自身を見直そう)!
■スペシャル・バージョン 東仙坊からの「聖夜」に、日本人らしい「聖なる武士」考
●極東の小さな島国なのに、我が日本は、なぜ大昔から感染症に苦しんできたのか?
◆この世界有数の地震大国の我が国で、実は、大昔からその地震よりも、火事よりも、最も恐れ戦き苦しめられたのが、「『物の怪』の仕業」と考えられた「はやり病(疫病)」。
というのも、それなりの後遺症的崩壊があっても、地震も火事も一過性。
ところが、目に見えない感染症は、どう抵抗していいかもわからない終わりの見えない厄災。
それゆえ、ヘタをすれば、それが永遠に続きそうな気がするから、かなり苦しんだはず。
そうでなくても、木訥とした我々日本人は、もともと大自然と共生し、慎ましやかに、淡々と質素倹約し、とにかく、そこら中に溢れている神々を畏敬しつつ、清廉潔白に生きてることを信条としていた我々日本人は、そこら中を掃除したり、いつも洗濯したり、可能な限り湯浴みや川浴びをしたりして、履き物を室内では脱ぎ、貧しくても身ぎれいにし、粗食を食べノンビリゆったりと過ごしていたはず。
また、絶えず「もののあわれ」とか「儚さ」、「侘び」とか「寂び」などを素直に受け入れてきた我々日本人は、そんな「物の怪」と戦おうとすることは空しいことどこか達観するところがあったはず。
では、四方八方を比較的荒い海に囲まれた我が国で、どうして「はやり病」が生まれたのか?
凄く変だと思わないか?
事実、6世紀、14世紀、17世紀、19世紀の4回ものペストだろうと、19世紀のコレラだろうと、我が国では、そこそこに抑止できたはず。
特に、19世紀のすでにグローバル化が激化し始めていた時代には、世界でも画期的だったはず。
ただし、これには、その海だけでなく、「日本細菌学の父」北里柴三郎の貢献があったから。
では、なぜ、そんな我が国が、飛鳥時代や奈良時代から、「はやり病」に苦しめられることになったのか?
それは、隣国に、汚穢まみれの不衛生極まりない中国とサプアがあったから。
そして、遣隋使や遣唐使なるいわゆるプチグローバル化を始めてしまったから。
それ以前にも、我が日本最古の歴史書「日本書紀」に、「3世紀、崇神天皇のとき、国内に疫病が大量発生し、民の半分以上が死亡した」とあるように、滅亡した後漢から大量の難民がやってきたから。
そうして、すでに世界有数の文明国家だった中国からやってきたのが、文化や知識とともに、「疱瘡(天然痘)」や「麻疹(ハシカ)」などの
「はやり病(疫病)」。
そして、戦国時代になると、「梅毒」。
とりわけ、奈良時代、日本に現存する最古の和歌集「万葉集」ができたころは、各種天災とともに、その「疱瘡(天然痘)」が大流行大惨事になったとか。
それゆえ、「万葉集」には、「はやり病」が、仏典用語の「鬼にとりつかれた病気」、「鬼病」という言葉で登場しているとか。
のことを呼ぶ言葉だが、そこから疫病のことを意味
ちなみに、「節分」の「鬼は外」の「鬼」とは、「疫病神」のこととか。
何でも、「節分」の大元は、中国の宮中で行われていた行事「追儺」で、鬼の姿をした者が疫病で人々を苦しめる「疫鬼」に見立てられ、その「疫鬼」を追い払うことだったとか。
ともあれ、その「万葉集」には、旅途中の島で「鬼病」にかかって死亡してしまった人を弔う歌があるとも。
「時も過ぎ 月も経ぬれば 今日か来む 明日かも来むと 家人は 待ち恋ふらむに 遠の国 いまだも着かず 大和をも 遠く離りて 岩が根の 荒き島根に 宿りする君」
どうだろう?
時が過ぎて、月日も経ち、今日帰ってくるか明日帰ってくるかと家族は首を長くして心配しているのに、キミは旅先にも着かず故郷にも帰れず、あの島で眠ったままなのか…。
今日日と何も変わらないのでは?
とにかく、8世紀の我が国の「疱瘡(天然痘)」の大爆発的パンデミックは、ハンパじゃなかったとか。
総人口約700万人の4分の1~3分の1が死亡したとも?
そして、平安時代に編纂された勅撰史書「続日本紀」が、そのことにちゃんと触れているとか。
天平の時代の朝廷を無双状態で動かしていたのが、藤原不比等の子どもの4兄弟、藤原武智麻呂、藤原房前、藤原宇合、藤原麻呂。
その4兄弟が、737年、約3分の1の公卿たちとともに、全員、「疱瘡(天然痘)」で突然死。
それを民衆は、「4兄弟が自害に追い込んだ『長屋王『の祟りでは?」と噂したとか。
そのせいか、彼らの妹は聖武天皇の妃、光明皇后となって、光明子となって、聖武天皇とともに、長屋王の呪いを恐れたかのように、折からの大地震もあって、「とにかく都を移したい」と、平城京、恭仁京、紫香楽宮、難波宮と遷都し、仏教を広め国教とし、数多くの寺とともにあの「奈良の大仏」まで建立したとか。
長くなったので、続きは、また明日! チャオ!サイレント・ナイト!!!
I was very shocked that Prince Shotoku had died of a “plague”(あの聖徳太子が「疫病」で亡くなられていたなんて凄くショック)!
To be continued...
■スペシャル・バージョン 東仙坊からの「聖夜」に、日本人らしい「聖なる武士」考
●極東の小さな島国なのに、我が日本は、なぜ大昔から感染症に苦しんできたのか?
◆この世界有数の地震大国の我が国で、実は、大昔からその地震よりも、火事よりも、最も恐れ戦き苦しめられたのが、「『物の怪』の仕業」と考えられた「はやり病(疫病)」。
というのも、それなりの後遺症的崩壊があっても、地震も火事も一過性。
ところが、目に見えない感染症は、どう抵抗していいかもわからない終わりの見えない厄災。
それゆえ、ヘタをすれば、それが永遠に続きそうな気がするから、かなり苦しんだはず。
そうでなくても、木訥とした我々日本人は、もともと大自然と共生し、慎ましやかに、淡々と質素倹約し、とにかく、そこら中に溢れている神々を畏敬しつつ、清廉潔白に生きてることを信条としていた我々日本人は、そこら中を掃除したり、いつも洗濯したり、可能な限り湯浴みや川浴びをしたりして、履き物を室内では脱ぎ、貧しくても身ぎれいにし、粗食を食べノンビリゆったりと過ごしていたはず。
また、絶えず「もののあわれ」とか「儚さ」、「侘び」とか「寂び」などを素直に受け入れてきた我々日本人は、そんな「物の怪」と戦おうとすることは空しいことどこか達観するところがあったはず。
では、四方八方を比較的荒い海に囲まれた我が国で、どうして「はやり病」が生まれたのか?
凄く変だと思わないか?
事実、6世紀、14世紀、17世紀、19世紀の4回ものペストだろうと、19世紀のコレラだろうと、我が国では、そこそこに抑止できたはず。
特に、19世紀のすでにグローバル化が激化し始めていた時代には、世界でも画期的だったはず。
ただし、これには、その海だけでなく、「日本細菌学の父」北里柴三郎の貢献があったから。
では、なぜ、そんな我が国が、飛鳥時代や奈良時代から、「はやり病」に苦しめられることになったのか?
それは、隣国に、汚穢まみれの不衛生極まりない中国とサプアがあったから。
そして、遣隋使や遣唐使なるいわゆるプチグローバル化を始めてしまったから。
それ以前にも、我が日本最古の歴史書「日本書紀」に、「3世紀、崇神天皇のとき、国内に疫病が大量発生し、民の半分以上が死亡した」とあるように、滅亡した後漢から大量の難民がやってきたから。
そうして、すでに世界有数の文明国家だった中国からやってきたのが、文化や知識とともに、「疱瘡(天然痘)」や「麻疹(ハシカ)」などの
「はやり病(疫病)」。
そして、戦国時代になると、「梅毒」。
とりわけ、奈良時代、日本に現存する最古の和歌集「万葉集」ができたころは、各種天災とともに、その「疱瘡(天然痘)」が大流行大惨事になったとか。
それゆえ、「万葉集」には、「はやり病」が、仏典用語の「鬼にとりつかれた病気」、「鬼病」という言葉で登場しているとか。
のことを呼ぶ言葉だが、そこから疫病のことを意味
ちなみに、「節分」の「鬼は外」の「鬼」とは、「疫病神」のこととか。
何でも、「節分」の大元は、中国の宮中で行われていた行事「追儺」で、鬼の姿をした者が疫病で人々を苦しめる「疫鬼」に見立てられ、その「疫鬼」を追い払うことだったとか。
ともあれ、その「万葉集」には、旅途中の島で「鬼病」にかかって死亡してしまった人を弔う歌があるとも。
「時も過ぎ 月も経ぬれば 今日か来む 明日かも来むと 家人は 待ち恋ふらむに 遠の国 いまだも着かず 大和をも 遠く離りて 岩が根の 荒き島根に 宿りする君」
どうだろう?
時が過ぎて、月日も経ち、今日帰ってくるか明日帰ってくるかと家族は首を長くして心配しているのに、キミは旅先にも着かず故郷にも帰れず、あの島で眠ったままなのか…。
今日日と何も変わらないのでは?
とにかく、8世紀の我が国の「疱瘡(天然痘)」の大爆発的パンデミックは、ハンパじゃなかったとか。
総人口約700万人の4分の1~3分の1が死亡したとも?
そして、平安時代に編纂された勅撰史書「続日本紀」が、そのことにちゃんと触れているとか。
天平の時代の朝廷を無双状態で動かしていたのが、藤原不比等の子どもの4兄弟、藤原武智麻呂、藤原房前、藤原宇合、藤原麻呂。
その4兄弟が、737年、約3分の1の公卿たちとともに、全員、「疱瘡(天然痘)」で突然死。
それを民衆は、「4兄弟が自害に追い込んだ『長屋王『の祟りでは?」と噂したとか。
そのせいか、彼らの妹は聖武天皇の妃、光明皇后となって、光明子となって、聖武天皇とともに、長屋王の呪いを恐れたかのように、折からの大地震もあって、「とにかく都を移したい」と、平城京、恭仁京、紫香楽宮、難波宮と遷都し、仏教を広め国教とし、数多くの寺とともにあの「奈良の大仏」まで建立したとか。
長くなったので、続きは、また明日! チャオ!サイレント・ナイト!!!
I was very shocked that Prince Shotoku had died of a “plague”(あの聖徳太子が「疫病」で亡くなられていたなんて凄くショック)!
To be continued...