恒久不変な日本砂漠-46 本当に地球上の人間社会は「ワンチーム」なのか?
Perhaps the real Japanese would respect the poor but innocent and dignified samurai, saying, “A samurai uses a toothpick even when they don't have anything to eat” rather than the townspeople who became rich(本物の日本人は、にわか成金になった町人たちよりも、「武士は食わねど高楊枝」と貧しくても清廉潔白で品格のある武士を尊敬したのでは)!
■スペシャル・バージョン 東仙坊からの「聖夜」に、日本人らしい「聖なる武士」考
●極東の小さな島国なのに、我が日本は、なぜ大昔から感染症に苦しんできたのか?
◆東仙坊、「Silent night(サイレントナイト:聖夜)」に、我が日本人としての矜恃を象徴する清らかな「Silent knight(サイレント・ナイト:聖なる武士)」について、シミジミ熟考したために、ちょっと長くなってしまって、恐縮している。
しかし、我が日本の「はやり病(疫病)」の歴史を顧みると、改めて「物の怪」でしかない中韓とは関わるべきではないと結論している。
そう、歴史的にも、未来的にも、百害あって一利ナシ。
そうすると、威風堂々とそう決断した聖徳太子に、心の底から、頭が下がる。
さて、それでどうしても話したくなるのが、その聖徳太子が建立した法隆寺の「釈迦三尊像」。
何でも、7世紀の飛鳥時代に造られたというこの仏像、実は、流行る「疱瘡(天然痘)」に感染してしまった聖徳太子の回復を願ったもので、仏像自体が、聖徳太子の似姿だというのである。
実際、光背の銘文に、「622年、聖徳太子が病に倒れた」と刻まれているとか。
また、その前年や同年に聖徳太子の母君やお妃も亡くなっているとも。
本当に「はやり病(疫病)」は恐ろしいモノだったはず。
それだからこそ、そこから1000年経ったそれから17世紀になっても、我が日本の人口は、ちょうど倍の約1200万人にくらいにしかならなかったのでは?
ところが、鎖国政策を取ると、江戸時代の約18世紀までの100年間で倍の約2400万人になれたのでは?
そう、中韓とつき合わないことが、我が国が厄災と出遭わなくなる唯一の道。
さて、では、大自然と共生することを信条とする我が日本人は、「はやり病」と戦おうとせず、そんな恐ろしいモノとも共生するために、何を考えたのか?
「もののあわれ」と「儚さ」を熟知する真面目な日本人は、まずその見えない相手をビジュアル化することで見えるモノとして対峙して生きようと心がけようとしたに違いない。
見えさえすれば、その何とも言いようのない「はやり病」による死の恐怖や不安を少しでも軽減できるうえ、自分が清らかにしていれば入り込んでこれなくなると思ったからに違いない。
と同時に、見えさえすれば、相手がどう考えどう動こうとしているかが理解でき、心の準備ができると考えたからに違いない。
そして、我が日本人は、「はやり病(疫病)」を「鬼」の姿に見立てたのである。
それをシンボリックに表しているのが、奈良国立博物館にある、12世紀の平安時代に描かれた国宝の「辟邪絵 天刑星」なる絵画。
何でも、邪悪な「疫鬼(疫病を流行らせる悪神)」たちを退治する5人の善心「辟邪神(天刑星・鍾馗・栴檀乾闥婆・神虫・毘沙門天)」のうちの1人で、もともと天界にいて星々を司るとされる中国の道教神で、我が国では疫病を退治する陰陽道の鬼神である「天刑星(天の刑罰を与える星)」が、その4本の腕で捕らえた「牛頭天王」をはじめとする「疫鬼」を酢に浸け食べている姿カタチの何と奇妙なほどリアルなことか。
その鬼の姿カタチは、なぜか世界中の美術館にある「融通念仏縁起絵巻(清涼寺本)」にも観ることができる。
何でも、平安時代に「融通念仏宗」を興した「良忍(1073年~1132年)」の念仏の功徳について説いた説話を描いた絵巻物で、なかでも、「疱瘡(天然痘)」のパンデミック阻止を祈願し念仏を唱える人々の家の入り口で、大挙して集まっている「疫鬼」たちが、仏事に参加している人々の名簿を見せられ、念仏の功徳に感じ入り、その参加者名簿の一人一人の名前の下に「この人には悪いことをしない」というサインをして退散してゆくシーンには、どこか「仏様の加護により押し寄せた疫病を払いのけることができた」という雰囲気があるから、不思議。
ともあれ、八百万神とともに大自然と共生していた我が日本人が、「はやり病(疫病)」のために、さらに仏教に加護を求め、心の安寧を取り戻そうと努め始めたことは、事実。
実際、平安時代ころからは、「はやり病(疫病)」の終息を願う神事が全国で展開されるようになったとか。
その1つが、今なお続く「祇園祭」。
と同時に、いつも自らを律し、心清らかに、美しいモノとともに美しく生きようとし始めたのも、また事実。
そのために、次第に、「疫鬼」どもを、日常の中にコミカルに捉えようと心がけ始めたはず。
どうだろう?
日本人の何とも言えない寛容さをそこに見ないか?
厳島神社の国宝「平家納経」。
1846年「瓦版」に載せられたという「肥後の国の海の中に『アマビエ』と名乗る『光る物体』が毎夜出没した。そして、『当年より6年間は諸国で豊作が続くが疫病も流行する。もし疫病が流行ったら私の姿を描き写して人々に見せよ』と言い残し、再び海中に去って行った」という記事。
明治時代にコレラが流行した際に、感染予防のお守りとして街中に売られていた3本の足を持つサルの姿をした妖怪「海彦」の錦絵。
どうだろう?
人一倍忍耐強い我が日本人は、どこまでも洗練されているのでは?
Is it time for us to return to a country full of samurai who try to live at their own risk(今こそ、我々は、何から何まで自己責任で生きようとする武士だらけの国に戻るときなのでは)?
To be continued...
■スペシャル・バージョン 東仙坊からの「聖夜」に、日本人らしい「聖なる武士」考
●極東の小さな島国なのに、我が日本は、なぜ大昔から感染症に苦しんできたのか?
◆東仙坊、「Silent night(サイレントナイト:聖夜)」に、我が日本人としての矜恃を象徴する清らかな「Silent knight(サイレント・ナイト:聖なる武士)」について、シミジミ熟考したために、ちょっと長くなってしまって、恐縮している。
しかし、我が日本の「はやり病(疫病)」の歴史を顧みると、改めて「物の怪」でしかない中韓とは関わるべきではないと結論している。
そう、歴史的にも、未来的にも、百害あって一利ナシ。
そうすると、威風堂々とそう決断した聖徳太子に、心の底から、頭が下がる。
さて、それでどうしても話したくなるのが、その聖徳太子が建立した法隆寺の「釈迦三尊像」。
何でも、7世紀の飛鳥時代に造られたというこの仏像、実は、流行る「疱瘡(天然痘)」に感染してしまった聖徳太子の回復を願ったもので、仏像自体が、聖徳太子の似姿だというのである。
実際、光背の銘文に、「622年、聖徳太子が病に倒れた」と刻まれているとか。
また、その前年や同年に聖徳太子の母君やお妃も亡くなっているとも。
本当に「はやり病(疫病)」は恐ろしいモノだったはず。
それだからこそ、そこから1000年経ったそれから17世紀になっても、我が日本の人口は、ちょうど倍の約1200万人にくらいにしかならなかったのでは?
ところが、鎖国政策を取ると、江戸時代の約18世紀までの100年間で倍の約2400万人になれたのでは?
そう、中韓とつき合わないことが、我が国が厄災と出遭わなくなる唯一の道。
さて、では、大自然と共生することを信条とする我が日本人は、「はやり病」と戦おうとせず、そんな恐ろしいモノとも共生するために、何を考えたのか?
「もののあわれ」と「儚さ」を熟知する真面目な日本人は、まずその見えない相手をビジュアル化することで見えるモノとして対峙して生きようと心がけようとしたに違いない。
見えさえすれば、その何とも言いようのない「はやり病」による死の恐怖や不安を少しでも軽減できるうえ、自分が清らかにしていれば入り込んでこれなくなると思ったからに違いない。
と同時に、見えさえすれば、相手がどう考えどう動こうとしているかが理解でき、心の準備ができると考えたからに違いない。
そして、我が日本人は、「はやり病(疫病)」を「鬼」の姿に見立てたのである。
それをシンボリックに表しているのが、奈良国立博物館にある、12世紀の平安時代に描かれた国宝の「辟邪絵 天刑星」なる絵画。
何でも、邪悪な「疫鬼(疫病を流行らせる悪神)」たちを退治する5人の善心「辟邪神(天刑星・鍾馗・栴檀乾闥婆・神虫・毘沙門天)」のうちの1人で、もともと天界にいて星々を司るとされる中国の道教神で、我が国では疫病を退治する陰陽道の鬼神である「天刑星(天の刑罰を与える星)」が、その4本の腕で捕らえた「牛頭天王」をはじめとする「疫鬼」を酢に浸け食べている姿カタチの何と奇妙なほどリアルなことか。
その鬼の姿カタチは、なぜか世界中の美術館にある「融通念仏縁起絵巻(清涼寺本)」にも観ることができる。
何でも、平安時代に「融通念仏宗」を興した「良忍(1073年~1132年)」の念仏の功徳について説いた説話を描いた絵巻物で、なかでも、「疱瘡(天然痘)」のパンデミック阻止を祈願し念仏を唱える人々の家の入り口で、大挙して集まっている「疫鬼」たちが、仏事に参加している人々の名簿を見せられ、念仏の功徳に感じ入り、その参加者名簿の一人一人の名前の下に「この人には悪いことをしない」というサインをして退散してゆくシーンには、どこか「仏様の加護により押し寄せた疫病を払いのけることができた」という雰囲気があるから、不思議。
ともあれ、八百万神とともに大自然と共生していた我が日本人が、「はやり病(疫病)」のために、さらに仏教に加護を求め、心の安寧を取り戻そうと努め始めたことは、事実。
実際、平安時代ころからは、「はやり病(疫病)」の終息を願う神事が全国で展開されるようになったとか。
その1つが、今なお続く「祇園祭」。
と同時に、いつも自らを律し、心清らかに、美しいモノとともに美しく生きようとし始めたのも、また事実。
そのために、次第に、「疫鬼」どもを、日常の中にコミカルに捉えようと心がけ始めたはず。
どうだろう?
日本人の何とも言えない寛容さをそこに見ないか?
厳島神社の国宝「平家納経」。
1846年「瓦版」に載せられたという「肥後の国の海の中に『アマビエ』と名乗る『光る物体』が毎夜出没した。そして、『当年より6年間は諸国で豊作が続くが疫病も流行する。もし疫病が流行ったら私の姿を描き写して人々に見せよ』と言い残し、再び海中に去って行った」という記事。
明治時代にコレラが流行した際に、感染予防のお守りとして街中に売られていた3本の足を持つサルの姿をした妖怪「海彦」の錦絵。
どうだろう?
人一倍忍耐強い我が日本人は、どこまでも洗練されているのでは?
Is it time for us to return to a country full of samurai who try to live at their own risk(今こそ、我々は、何から何まで自己責任で生きようとする武士だらけの国に戻るときなのでは)?
To be continued...