恒久不変な日本砂漠-46 本当に地球上の人間社会は「ワンチーム」なのか?
We must keep in mind that the country of Russia was an unnamed little “Principality” on the northeastern frontier of “Kievan Rus”(我々は、ロシアという国が、「キエフ・ルーシ」の北東の辺境にあった無名の小さな「公国」だったということを頭に入れて置かなければならない)!
■893国家中国を甘やかし寛大極まりない関与策を取り続け、木のテッペンにまで登らせてしまったUSA民主党の世紀の不作為
●日本は、歴史的にありとあらゆる影響を中国から受けてきたが、ただの一度も中国と真っ向から対峙したことはなかったのでは?
○日本は、この経済成長など見込めない時代だからこそ、中国の本当の顔を真摯に直視すべきとき
◇ルーシのなかで、全く目立たなかった小国ロシアの起源「モスクワ公国」の陰険な処世術とは?
13世紀前半、モンゴル軍は、南ルーシ諸侯とウクライナ~カザフスタン南ロシア草原のテュルク系遊牧民「キプチャク(ポロヴェツ族)」の連合軍に大勝したのに、なぜか未征服のまま、服従させる選択をする。
どうやら、それは、その本来のコーカソイドである「キプチャク」が、早くから「モンゴロイド」とアクティブに混合していて、どこか憎めないうえ、たびたびルーシに略奪・侵攻し、「キエフ公」スヴャトスラフや「ノヴゴロド・セーヴェルスキー」公イーゴリなどと激闘を繰り広げていたからでもある。
「キエフ・ルーシ」ともども「ジョチ・ウルス」領となったので、「ジョチ・ウルス」は「キプチャク・ハン国」とも呼ばれることになったとか。
ところで、ロシアの起源である「モスクワ公国」は、もともと、「キエフ・ルーシ」の北東辺境地にあったルーシ系「ウラジーミル・スズダリ」公国の下に成立した小さな小さな公国。
そんななか、1243年、「ウラジーミル大公」ユーリー2世の弟「ノヴゴロド公」ヤロスラフが、「ウラジーミル大公位」の座に就き、「ルーシ諸公の長老」としての地位を獲得。
そして、ドイツとの戦争に明け暮れた「ノヴゴロド公」アレクサンドル・ネフスキーの死後、1263年、弟の「トヴェリ公」ヤロスラフが「ウラジミール大公位」を継承し、アレクサンドル・ネフスキーの末子ダニール・アレクサンドロヴィチに与えられた分領が大元。
ともあれ、1271年、そのダニールが、初代「モスクワ公」を襲名。
けれども、ダニールがまだ幼少だったので、叔父ヤロスラフ3世の後見を受けていたが、やがて両者が大公位をめぐって対立。
そして、その醜い対立は、それぞれの子の代に決定的になったとか。
「モスクワ公」ユーリー・ダニイロヴィチは、ウズベク・ハンと姻戚関係を結び、「ウラジミール大公位」を継承したが、「トヴェリ公」ミハイル・ヤロスラヴィチが、この決定にあからさまに不服を表明。
そのために、両者は、血縁なのにドロドロ交戦。
そして、サライに逃げ帰ったユーリーが、ミハイルの反逆を親戚になっていた「ジョチ・ウルス」第10代君主ウズベク・ハンに直訴。
すると、たちどころにミハイルはサライに召喚されて処刑されたとか。
ユーリーは、1318年、ノヴゴロドとモンゴルの支持を得て、初めて「ウラジーミル大公」ユーリー3世を襲名。
すると、因果応報かのように、1325年、「ウラジーミル大公」ユーリー3世が、ミハイルの息子ドミートリー・ミハイロヴィチによって殺害されてしまったとか。
もちろん、それをウズベク・ハンが許すはずもナシ。
ドミートリーも、父親同様、すぐに処刑されてしまったとか。
そこで、「ウラジミール大公位」は、ダニールの子孫ではない「トヴェリ」のドミトリー・その弟アレクサンドルに移ったが、1327年、ダニールの子「モスクワ公」イヴァン1世が、トヴェリにおける反タタール蜂起の際にモンゴルの尖兵として大活躍。
1327年、ウズベク・ハンが意図した「バスカク(代官)制度」復活に対し、「トヴェリ」で民衆暴動が勃発。
「トヴェリ公」アレクサンドルが、「ジョチ・ウルス」に対する反乱勢力に加わると、「ウラジーミル大公位」をめぐって再び対立関係にあった最大ライバル「モスクワ公」イヴァン1世はモンゴルの側に回り、ウズベク・ハンとともに「トヴェリ」を破って、これを徹底的に破壊。
イヴァン1世は、「トヴェリ公」を追放させ、ウラジーミル大公位を獲得。
以後、歴代の「モスクワ公」が、「ウラジーミル大公」を独占、「モスクワ大公」も自称。
ルーシの国々のなかでも、モスクワが、北東部で勢力を強めることができたのは、南部ルーシの大国がモンゴルによって徹底的に壊滅されてしまったことに加え、モンゴル側も、他国以上に多額の税をもたらしながら、ひたすらすり寄ってくるモスクワをネコ可愛がりしたから。
それをカサにかかって、「モスクワ公」は、豊かな都市国家「ノヴゴロド」を支配下に収め、貢税の資金獲得を画策。
ユーリー3世の弟で、「カリター(金袋)」ことモスクワ大公イヴァン1世は、狡猾にハンのために徴収した税の一部を着服して富を築き、 その財力で領地を買い集め、結婚政策や武力も用いて領土拡大。
そして、モスクワに最初の石造教会堂であるウスペンスキー教会堂を建立したうえで、コンスタンティノープル総主教に取り入り、全ルーシの最高位聖職者でウラジーミルにいたキエフ府主教をモスクワに迎え入れ、モスクワに「キエフ・全ルーシの府主教」を遷座させることに成功。
モスクワは、精神的にもキエフにかわってルーシの中心地。
「モスクワ公国」は、「モスクワ大公国」と呼ばれるようになり、モスクワ大公は、ルーシ諸国を代表してその意思を「ジョチ・ウルス」に伝え、ルーシ諸国に対しては「ジョチ・ウルス」の意向を伝える立場になり、その権力を強化。
The Russians, who were crude and quiet peasants, have become such a brutal and brutal race, arguably because they have accepted too much blood from the savage and inhumane nomadic and hunting people of Mongolia(粗野で大人しい農民だったロシア人が、ここまで粗暴で残忍非道な人種になったのは、間違いなく野蛮で非人間的な遊牧・狩猟民族であるモンゴル人の血を受け入れ過ぎたせいなのかも)!
To be continued...
■893国家中国を甘やかし寛大極まりない関与策を取り続け、木のテッペンにまで登らせてしまったUSA民主党の世紀の不作為
●日本は、歴史的にありとあらゆる影響を中国から受けてきたが、ただの一度も中国と真っ向から対峙したことはなかったのでは?
○日本は、この経済成長など見込めない時代だからこそ、中国の本当の顔を真摯に直視すべきとき
◇ルーシのなかで、全く目立たなかった小国ロシアの起源「モスクワ公国」の陰険な処世術とは?
13世紀前半、モンゴル軍は、南ルーシ諸侯とウクライナ~カザフスタン南ロシア草原のテュルク系遊牧民「キプチャク(ポロヴェツ族)」の連合軍に大勝したのに、なぜか未征服のまま、服従させる選択をする。
どうやら、それは、その本来のコーカソイドである「キプチャク」が、早くから「モンゴロイド」とアクティブに混合していて、どこか憎めないうえ、たびたびルーシに略奪・侵攻し、「キエフ公」スヴャトスラフや「ノヴゴロド・セーヴェルスキー」公イーゴリなどと激闘を繰り広げていたからでもある。
「キエフ・ルーシ」ともども「ジョチ・ウルス」領となったので、「ジョチ・ウルス」は「キプチャク・ハン国」とも呼ばれることになったとか。
ところで、ロシアの起源である「モスクワ公国」は、もともと、「キエフ・ルーシ」の北東辺境地にあったルーシ系「ウラジーミル・スズダリ」公国の下に成立した小さな小さな公国。
そんななか、1243年、「ウラジーミル大公」ユーリー2世の弟「ノヴゴロド公」ヤロスラフが、「ウラジーミル大公位」の座に就き、「ルーシ諸公の長老」としての地位を獲得。
そして、ドイツとの戦争に明け暮れた「ノヴゴロド公」アレクサンドル・ネフスキーの死後、1263年、弟の「トヴェリ公」ヤロスラフが「ウラジミール大公位」を継承し、アレクサンドル・ネフスキーの末子ダニール・アレクサンドロヴィチに与えられた分領が大元。
ともあれ、1271年、そのダニールが、初代「モスクワ公」を襲名。
けれども、ダニールがまだ幼少だったので、叔父ヤロスラフ3世の後見を受けていたが、やがて両者が大公位をめぐって対立。
そして、その醜い対立は、それぞれの子の代に決定的になったとか。
「モスクワ公」ユーリー・ダニイロヴィチは、ウズベク・ハンと姻戚関係を結び、「ウラジミール大公位」を継承したが、「トヴェリ公」ミハイル・ヤロスラヴィチが、この決定にあからさまに不服を表明。
そのために、両者は、血縁なのにドロドロ交戦。
そして、サライに逃げ帰ったユーリーが、ミハイルの反逆を親戚になっていた「ジョチ・ウルス」第10代君主ウズベク・ハンに直訴。
すると、たちどころにミハイルはサライに召喚されて処刑されたとか。
ユーリーは、1318年、ノヴゴロドとモンゴルの支持を得て、初めて「ウラジーミル大公」ユーリー3世を襲名。
すると、因果応報かのように、1325年、「ウラジーミル大公」ユーリー3世が、ミハイルの息子ドミートリー・ミハイロヴィチによって殺害されてしまったとか。
もちろん、それをウズベク・ハンが許すはずもナシ。
ドミートリーも、父親同様、すぐに処刑されてしまったとか。
そこで、「ウラジミール大公位」は、ダニールの子孫ではない「トヴェリ」のドミトリー・その弟アレクサンドルに移ったが、1327年、ダニールの子「モスクワ公」イヴァン1世が、トヴェリにおける反タタール蜂起の際にモンゴルの尖兵として大活躍。
1327年、ウズベク・ハンが意図した「バスカク(代官)制度」復活に対し、「トヴェリ」で民衆暴動が勃発。
「トヴェリ公」アレクサンドルが、「ジョチ・ウルス」に対する反乱勢力に加わると、「ウラジーミル大公位」をめぐって再び対立関係にあった最大ライバル「モスクワ公」イヴァン1世はモンゴルの側に回り、ウズベク・ハンとともに「トヴェリ」を破って、これを徹底的に破壊。
イヴァン1世は、「トヴェリ公」を追放させ、ウラジーミル大公位を獲得。
以後、歴代の「モスクワ公」が、「ウラジーミル大公」を独占、「モスクワ大公」も自称。
ルーシの国々のなかでも、モスクワが、北東部で勢力を強めることができたのは、南部ルーシの大国がモンゴルによって徹底的に壊滅されてしまったことに加え、モンゴル側も、他国以上に多額の税をもたらしながら、ひたすらすり寄ってくるモスクワをネコ可愛がりしたから。
それをカサにかかって、「モスクワ公」は、豊かな都市国家「ノヴゴロド」を支配下に収め、貢税の資金獲得を画策。
ユーリー3世の弟で、「カリター(金袋)」ことモスクワ大公イヴァン1世は、狡猾にハンのために徴収した税の一部を着服して富を築き、 その財力で領地を買い集め、結婚政策や武力も用いて領土拡大。
そして、モスクワに最初の石造教会堂であるウスペンスキー教会堂を建立したうえで、コンスタンティノープル総主教に取り入り、全ルーシの最高位聖職者でウラジーミルにいたキエフ府主教をモスクワに迎え入れ、モスクワに「キエフ・全ルーシの府主教」を遷座させることに成功。
モスクワは、精神的にもキエフにかわってルーシの中心地。
「モスクワ公国」は、「モスクワ大公国」と呼ばれるようになり、モスクワ大公は、ルーシ諸国を代表してその意思を「ジョチ・ウルス」に伝え、ルーシ諸国に対しては「ジョチ・ウルス」の意向を伝える立場になり、その権力を強化。
The Russians, who were crude and quiet peasants, have become such a brutal and brutal race, arguably because they have accepted too much blood from the savage and inhumane nomadic and hunting people of Mongolia(粗野で大人しい農民だったロシア人が、ここまで粗暴で残忍非道な人種になったのは、間違いなく野蛮で非人間的な遊牧・狩猟民族であるモンゴル人の血を受け入れ過ぎたせいなのかも)!
To be continued...