恒久不変な日本砂漠-46 本当に地球上の人間社会は「ワンチーム」なのか?
In the end, history should clearly prove that the brutal Mongol Empire created what is now cruel and domineering Russia and China(結局、残忍非道なモンゴル帝国が、今の残虐で横暴なロシアや中国を創り上げたということは、明確に歴史が証明している)!
■893国家中国を甘やかし寛大極まりない関与策を取り続け、木のテッペンにまで登らせてしまったUSA民主党の世紀の不作為
●日本は、歴史的にありとあらゆる影響を中国から受けてきたが、ただの一度も中国と真っ向から対峙したことはなかったのでは?
○日本は、この経済成長など見込めない時代だからこそ、中国の本当の顔を真摯に直視すべきとき
1357年、「ジョチ・ウルス」は、ベルディ・ベクが父殺しでハン位を奪取し、反対派へ粛清に次ぐ粛清の嵐を吹かせ続けたために、大混乱。
そのために、台頭する「モスクワ公国」の発展を抑えることはできなくなっていたとか。
ベルディ・ベク死去後、「ジョチ・ウルス」では、ママイとトクタミシュの2人がハン国の主導権争い。
トクタミシュが、1370年、サマルカンドに「ムスリム王朝」を築いたティムールに助力を求めたのに対し、ママイの方はルーシへの影響力拡大によってこれに対抗。
ママイは、「リャザン」・「ニジニー」・「ノヴゴロド」を従属させ、「リトアニア大公」ヤガイロからの加勢の約束を取りつけ、弱体化した権力の再建を図ってモスクワ遠征。
そのうえ、ママイ軍には、タタール人ばかりではなく、北カフカスの諸民族やクリミア半島で集めた傭兵隊も加わり、総兵員は20万人。
1380年、ドン川流域で戦闘が起こり、ドミートリー率いる「モスクワ大公国」軍は、ママイ率いる「ジョチ・ウルス」系政権・「リトアニア」などの連合軍を破り(クリコヴォの戦い)、「タタールのクビキ」からの脱却の第一歩。
ちなみに、これこそが、ドミートリーが、「ドンスコイ(ドン川の)」と敬称されるワケ。
ともあれ、この戦いでモスクワの権威は高まったが、「ジョチ・ウルス」を再統一したトクタミシュの攻撃によって、惨めにもドミートリー・ドンスコイは、再度「ジョチ・ウルス」に臣従。
「モスクワ大公国」が、「ジョチ・ウルス」への貢納をストップするのは、1480年、ウグラ河畔で、イヴァン3世が大オルダのアフマド・ハンの軍勢をウグラ川から撤退させて以後とか。
ともあれ、モスクワ人が、本質的に生来モンゴル人のようにこのうえなく粗暴だったのか? あるいは、その後、言い訳のように伝え出した「タタールのクビキ(タタールの軛)」に逆らえない不幸な状況だったせいなのか? 支配するモンゴル人にメチャクチャおもねったことは確か。
そうすることで、モンゴル人のサポートを受け、勢力を拡大し、1392年、「ニジニ・ノヴゴロド公国」、「タルーサ公国」、「ムーロム公国」、「ゴロジェッツ公国」を併合。
一方、「ジョチ・ウルス」、モンゴル人の方も、自分たちと進んで混交するようになったモスクワ人を露骨に贔屓し始める。
それはそうである。
数的少数派だったモンゴル人たちが、征服地を統治するのに征服地に定住するのは、厄介なうえかなりリスキー。
特に、ステップ地帯は直接統治できても、定住農耕民の住む征服地を直接支配するのは、よくわからないからなおさら面倒。
そこで、先住農耕民の首長を通じて間接統治することを選択。
その点で、自分たちにアクティブに従順な姿勢を見せるモスクワ人は、ラク。
しかも、それによって、モンゴル人が農耕民族化し軍事的に弱体化してしまうこと極端に怖れたチンギス・カンの遺訓を遵守できるうえ、ヴォルガ川からクリミア半島を経由して黒海へ至る隊商ルート、ホラズム、ヴォルガ・ブルガリア、クリミア、カフカース地方などからの経済的収入にウハウハだったから。
そう、ロシア国内の交易ルートやロシアからの貢税収入なんかどうでもよかったから。
それはそうだと思わないか?
元来、「モスクワ公国」は、「キエフ大公国」の公権力よりは「ノヴゴロド公国」の公権力を受け継ぐ国家でしかないのに、「モスクワは北東ルーシの後継者」と突っ張って主張する厚顔無恥。
モスクワ住民も、元来、キエフ系ではなく、「東スラヴ人」とスカンジナビア人種コーカソイドである「フィン人」の融合した独自の民族が中心で、それに、「キエフ・ルーシ」の内紛やモンゴルのルーシ侵攻などから逃げてきたキエフからの難民、モンゴル人との混血ルーシ族が加わっただけ。
それゆえ、15世紀末以降、キエフ府主教座がモスクワへ遷座したことから、「キエフ・ルーシの相続人」を自称し始めたのも、ムリからぬコトなのでは?
そう、「モスクワ公国」は、ルーシ族の名を棄て、自ら進んで残忍非道なモンゴル人の手先になったようなモノ。
それなのに、何が「タタールのクビキ」だ、ウソばっかりなのでは?
Isn't it quite natural that people who don't have true love, warm hearts, and compassion aren't loved by others, aren't coldly treated, and aren't kind to them(本当の愛や温かな心や思いやりのない人々が、人から愛されず、冷たく相手にされず、やさしくしてもらえないのは、極めて当然なのでは)?
To be continued...
■893国家中国を甘やかし寛大極まりない関与策を取り続け、木のテッペンにまで登らせてしまったUSA民主党の世紀の不作為
●日本は、歴史的にありとあらゆる影響を中国から受けてきたが、ただの一度も中国と真っ向から対峙したことはなかったのでは?
○日本は、この経済成長など見込めない時代だからこそ、中国の本当の顔を真摯に直視すべきとき
1357年、「ジョチ・ウルス」は、ベルディ・ベクが父殺しでハン位を奪取し、反対派へ粛清に次ぐ粛清の嵐を吹かせ続けたために、大混乱。
そのために、台頭する「モスクワ公国」の発展を抑えることはできなくなっていたとか。
ベルディ・ベク死去後、「ジョチ・ウルス」では、ママイとトクタミシュの2人がハン国の主導権争い。
トクタミシュが、1370年、サマルカンドに「ムスリム王朝」を築いたティムールに助力を求めたのに対し、ママイの方はルーシへの影響力拡大によってこれに対抗。
ママイは、「リャザン」・「ニジニー」・「ノヴゴロド」を従属させ、「リトアニア大公」ヤガイロからの加勢の約束を取りつけ、弱体化した権力の再建を図ってモスクワ遠征。
そのうえ、ママイ軍には、タタール人ばかりではなく、北カフカスの諸民族やクリミア半島で集めた傭兵隊も加わり、総兵員は20万人。
1380年、ドン川流域で戦闘が起こり、ドミートリー率いる「モスクワ大公国」軍は、ママイ率いる「ジョチ・ウルス」系政権・「リトアニア」などの連合軍を破り(クリコヴォの戦い)、「タタールのクビキ」からの脱却の第一歩。
ちなみに、これこそが、ドミートリーが、「ドンスコイ(ドン川の)」と敬称されるワケ。
ともあれ、この戦いでモスクワの権威は高まったが、「ジョチ・ウルス」を再統一したトクタミシュの攻撃によって、惨めにもドミートリー・ドンスコイは、再度「ジョチ・ウルス」に臣従。
「モスクワ大公国」が、「ジョチ・ウルス」への貢納をストップするのは、1480年、ウグラ河畔で、イヴァン3世が大オルダのアフマド・ハンの軍勢をウグラ川から撤退させて以後とか。
ともあれ、モスクワ人が、本質的に生来モンゴル人のようにこのうえなく粗暴だったのか? あるいは、その後、言い訳のように伝え出した「タタールのクビキ(タタールの軛)」に逆らえない不幸な状況だったせいなのか? 支配するモンゴル人にメチャクチャおもねったことは確か。
そうすることで、モンゴル人のサポートを受け、勢力を拡大し、1392年、「ニジニ・ノヴゴロド公国」、「タルーサ公国」、「ムーロム公国」、「ゴロジェッツ公国」を併合。
一方、「ジョチ・ウルス」、モンゴル人の方も、自分たちと進んで混交するようになったモスクワ人を露骨に贔屓し始める。
それはそうである。
数的少数派だったモンゴル人たちが、征服地を統治するのに征服地に定住するのは、厄介なうえかなりリスキー。
特に、ステップ地帯は直接統治できても、定住農耕民の住む征服地を直接支配するのは、よくわからないからなおさら面倒。
そこで、先住農耕民の首長を通じて間接統治することを選択。
その点で、自分たちにアクティブに従順な姿勢を見せるモスクワ人は、ラク。
しかも、それによって、モンゴル人が農耕民族化し軍事的に弱体化してしまうこと極端に怖れたチンギス・カンの遺訓を遵守できるうえ、ヴォルガ川からクリミア半島を経由して黒海へ至る隊商ルート、ホラズム、ヴォルガ・ブルガリア、クリミア、カフカース地方などからの経済的収入にウハウハだったから。
そう、ロシア国内の交易ルートやロシアからの貢税収入なんかどうでもよかったから。
それはそうだと思わないか?
元来、「モスクワ公国」は、「キエフ大公国」の公権力よりは「ノヴゴロド公国」の公権力を受け継ぐ国家でしかないのに、「モスクワは北東ルーシの後継者」と突っ張って主張する厚顔無恥。
モスクワ住民も、元来、キエフ系ではなく、「東スラヴ人」とスカンジナビア人種コーカソイドである「フィン人」の融合した独自の民族が中心で、それに、「キエフ・ルーシ」の内紛やモンゴルのルーシ侵攻などから逃げてきたキエフからの難民、モンゴル人との混血ルーシ族が加わっただけ。
それゆえ、15世紀末以降、キエフ府主教座がモスクワへ遷座したことから、「キエフ・ルーシの相続人」を自称し始めたのも、ムリからぬコトなのでは?
そう、「モスクワ公国」は、ルーシ族の名を棄て、自ら進んで残忍非道なモンゴル人の手先になったようなモノ。
それなのに、何が「タタールのクビキ」だ、ウソばっかりなのでは?
Isn't it quite natural that people who don't have true love, warm hearts, and compassion aren't loved by others, aren't coldly treated, and aren't kind to them(本当の愛や温かな心や思いやりのない人々が、人から愛されず、冷たく相手にされず、やさしくしてもらえないのは、極めて当然なのでは)?
To be continued...