恒久不変な日本砂漠-46 本当に地球上の人間社会は「ワンチーム」なのか?
China, a continental nation that is physiologically afraid of the sea, couldn't afford to pay attention to the crazy uninhabited islands of the East China Sea, where the Japanese pirates in the medieval period rampages, even though the country is rattling(生理的に海に恐怖を覚える大陸国家中国が、国内がガタガタなのに、倭寇が暴れる狂う東シナ海の無人島に関心を払う余裕など全くなかったのでは)?
■893国家中国を甘やかし寛大極まりない関与策を取り続け、木のテッペンにまで登らせてしまったUSA民主党の世紀の不作為
●日本は、歴史的にありとあらゆる影響を中国から受けてきたが、ただの一度も中国と真っ向から対峙したことはなかったのでは?
○中国共産党に、おバカ習近平に、「尖閣諸島」が自国の領土なんて言わせているのは、金のために魂を売ったUSAの「チャイナゲート」のハゲタカどもと我が国の内にいる「チャイナスクール」のアンポンタンども。
では、我が日本が、尖閣諸島の領有を宣言した1895年以前の尖閣諸島は、どんな状況だったのか?
その存在自体は、かなり昔から知られていて、記録として残っている限り、琉球時代、明(1368年~1644年)・清(1644年~1912年)朝時代には、十分知られていたとか。
ただし、それは、行き交う船舶の目印の島でしかなかったとも。
というのも、「琉球国」は、外国から仕入れた商品を別の国に売る「中継貿易」、厳密には、中国の王朝に貢ぎ物を差し出し皇帝から相応の品が下賜される「朝貢貿易」で大発展。
そこで、この「朝貢貿易」をちょっと深掘り。
琉中間通航が始まったのは、1372年。
それに対し、朝貢される側の陳侃(浙江省鄞県出身の尚清王の冊封正使。『冊封使録』の始まり『使琉球録』の著者)が渡琉したのは、1534年。
そう、162年後。
その間、琉球の官船441隻が、尖閣諸島の航路を通航。
明国の官船は、わずか21隻。
しかも、陳侃、琉球王国から派遣された水先案内人や熟練の水夫に頼り切り、島名も彼らから聞いたものを中国語に訳しただけ。
それで、象徴的な話が、これら。
陳侃は、ただ久米島を見て、「これすなわち琉球に属する島なり(乃属琉球者)」と述べているとか。
つまり、途中の島など何も知らずに久米島まできて、そこで琉球人に教えられ、それが琉球領であることを初めて知っただけ。
途中の島はすべて大海に孤立する無人島としか見ていなかったことの証左。
それに準ずるモノに、郭汝霖の「使琉球録(1561年)」。
「赤嶼は、琉球地方を界する島なり(赤嶼者界琉球地方山也)」
そして、郭汝霖の「石泉山房文集」には、「赤尾嶼は琉球領内にある境界の島であり、その島名は琉球人によってつけられた」とあるとか。
また、「籌海図編(1562年)」、「日本一鑑(1565年)」などの明代後期の海防書からも、尖閣諸島が中国領土であったとする証拠を見出すことはできなかったとか。
すると、邵漢儀;が、その歴史的証拠として、明代の「日本一鑑」の中の「釣魚嶼 小東小嶼也」の文言を援用。
「小東島は、すなわち、小琉球である。日本人は、それを大恵国(台湾)と呼んでいる」とも説明。
ここで「小東」は、明らかに台湾島のこと。
したがって、「釣魚嶼 小東小嶼也」とは、「釣魚嶼(魚釣島)は、台湾島附属の小島のことだ」とムチャぶり。
文脈で、「小東」と「小東島」を明らかに区別し、台湾島を、明確に「小東島」、「小東之島」と表現。
それゆえ、「小東之島」は、「小東にある島」、つまり、「小東」は海域を指す、「小東洋」。
具体的には、日本列島から沖縄列島を経て台湾ぐらいまでの列島弧沿いの太平洋海域を指し、「大東洋(太平洋中央部)」、「小西洋(インド洋)」、「大西洋(今の大西洋)」に対比。
その小東海域にある大きな島「小東島」が、台湾島で、その海域に浮かぶ小さな島「小東小嶼」が、釣魚嶼。
よって、「釣魚嶼は、小東の海(小東洋)にある小さな島」。
そう、釣魚嶼が、台湾島附属の小島とは、証明できず。
どうあれ、明代の中国の史料から、明代において尖閣諸島が中国の領土ではなかったことが判明。
そして、清代の文献で、尖閣諸島を中国領土と明記したものも見つからず、清国が尖閣諸島の領有を宣言して併合したり、そこに実効支配を及ぼしていたりした事実はないとか。
If China, a black social state with unmanned Chinese thought, once says it's its own thing, why not give up a little softly(傍若無人な中華思想の黒社会国家中国が、一度自分のモノと言いだしたら、ちょっとやそっとで諦めたりなどしないのでは)?
To be continued...
■893国家中国を甘やかし寛大極まりない関与策を取り続け、木のテッペンにまで登らせてしまったUSA民主党の世紀の不作為
●日本は、歴史的にありとあらゆる影響を中国から受けてきたが、ただの一度も中国と真っ向から対峙したことはなかったのでは?
○中国共産党に、おバカ習近平に、「尖閣諸島」が自国の領土なんて言わせているのは、金のために魂を売ったUSAの「チャイナゲート」のハゲタカどもと我が国の内にいる「チャイナスクール」のアンポンタンども。
では、我が日本が、尖閣諸島の領有を宣言した1895年以前の尖閣諸島は、どんな状況だったのか?
その存在自体は、かなり昔から知られていて、記録として残っている限り、琉球時代、明(1368年~1644年)・清(1644年~1912年)朝時代には、十分知られていたとか。
ただし、それは、行き交う船舶の目印の島でしかなかったとも。
というのも、「琉球国」は、外国から仕入れた商品を別の国に売る「中継貿易」、厳密には、中国の王朝に貢ぎ物を差し出し皇帝から相応の品が下賜される「朝貢貿易」で大発展。
そこで、この「朝貢貿易」をちょっと深掘り。
琉中間通航が始まったのは、1372年。
それに対し、朝貢される側の陳侃(浙江省鄞県出身の尚清王の冊封正使。『冊封使録』の始まり『使琉球録』の著者)が渡琉したのは、1534年。
そう、162年後。
その間、琉球の官船441隻が、尖閣諸島の航路を通航。
明国の官船は、わずか21隻。
しかも、陳侃、琉球王国から派遣された水先案内人や熟練の水夫に頼り切り、島名も彼らから聞いたものを中国語に訳しただけ。
それで、象徴的な話が、これら。
陳侃は、ただ久米島を見て、「これすなわち琉球に属する島なり(乃属琉球者)」と述べているとか。
つまり、途中の島など何も知らずに久米島まできて、そこで琉球人に教えられ、それが琉球領であることを初めて知っただけ。
途中の島はすべて大海に孤立する無人島としか見ていなかったことの証左。
それに準ずるモノに、郭汝霖の「使琉球録(1561年)」。
「赤嶼は、琉球地方を界する島なり(赤嶼者界琉球地方山也)」
そして、郭汝霖の「石泉山房文集」には、「赤尾嶼は琉球領内にある境界の島であり、その島名は琉球人によってつけられた」とあるとか。
また、「籌海図編(1562年)」、「日本一鑑(1565年)」などの明代後期の海防書からも、尖閣諸島が中国領土であったとする証拠を見出すことはできなかったとか。
すると、邵漢儀;が、その歴史的証拠として、明代の「日本一鑑」の中の「釣魚嶼 小東小嶼也」の文言を援用。
「小東島は、すなわち、小琉球である。日本人は、それを大恵国(台湾)と呼んでいる」とも説明。
ここで「小東」は、明らかに台湾島のこと。
したがって、「釣魚嶼 小東小嶼也」とは、「釣魚嶼(魚釣島)は、台湾島附属の小島のことだ」とムチャぶり。
文脈で、「小東」と「小東島」を明らかに区別し、台湾島を、明確に「小東島」、「小東之島」と表現。
それゆえ、「小東之島」は、「小東にある島」、つまり、「小東」は海域を指す、「小東洋」。
具体的には、日本列島から沖縄列島を経て台湾ぐらいまでの列島弧沿いの太平洋海域を指し、「大東洋(太平洋中央部)」、「小西洋(インド洋)」、「大西洋(今の大西洋)」に対比。
その小東海域にある大きな島「小東島」が、台湾島で、その海域に浮かぶ小さな島「小東小嶼」が、釣魚嶼。
よって、「釣魚嶼は、小東の海(小東洋)にある小さな島」。
そう、釣魚嶼が、台湾島附属の小島とは、証明できず。
どうあれ、明代の中国の史料から、明代において尖閣諸島が中国の領土ではなかったことが判明。
そして、清代の文献で、尖閣諸島を中国領土と明記したものも見つからず、清国が尖閣諸島の領有を宣言して併合したり、そこに実効支配を及ぼしていたりした事実はないとか。
If China, a black social state with unmanned Chinese thought, once says it's its own thing, why not give up a little softly(傍若無人な中華思想の黒社会国家中国が、一度自分のモノと言いだしたら、ちょっとやそっとで諦めたりなどしないのでは)?
To be continued...