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甘ちゃんアマチュア探偵団

情報化が模倣犯罪、劇場型犯罪を助長しているなら、犯罪抑止、犯罪摘発も、精度の高い情報がすべて。このブログは、人間通を自負するコピーライター東仙坊が迅速な犯人検挙のために、人間的プロファイリングをするものである。

東仙坊、聖夜に、釈尊と対面で話し合ってみたくなったので…!!!

I have no interest in Buddhism per se, but I should feel a great deal of sympathy for Shakyamuni's way of life(東仙坊、仏教そのものにに全く興味がないが、釈尊の生き方には、かなりの共感を覚えている)!

無神論者、東仙坊、すぐにテーマに戻そうと思っていたが、やはりクリスマス、ここはせっかくのこの機に、自分をもう一度凝視し直してみたいと考え、親鸞に触れたついでに、釈尊、いわゆるゴータマ・ブッダについても、検証しておきたい。
なぜなら、恥ずかしながら、いい歳になって初めて、ブッダとは、「目覚めた者」、「さとった人」のことで、仏教なるモノを創ったブッダは、そんなブッダの中の一人、ゴータマ・ブッダの教えなのだとつい最近知ったばかりだったからである。
そして、我が日本人の精神の核を担ったあの聖徳太子の琴線に触れることができた教えなのだから、少しは日本人として学んでおいた方がイイだろうと思ったからに他ならない。
だからといって、もちろん、宇宙の星の数ほどありそうな(?)漢語の仏教書を読む気など、サラサラない。
ただ、人間を天地を絶対的な神が創造したとは決して言わなかったこと、80歳を超えても托鉢行脚しお布施としての食べ物を供養としていただき食あたりで野垂れ死にしたゴータマ・ブッダの人間味、あるかどうかまだ誰一人も確認したことがないあの世や来世があるように偽らなかったこと、それだけでも、率直に、ゴータマ・ブッダの教えにある種のシンパシーを感じている。
ともあれ、その教えのように、Xmasイブの昨夜、久しぶりに友人たちと輪になって、今、世界で起きている心の大恐慌、命のバブルについて、言葉で話し合うことにした。
そして、東仙坊、特にゴータマ・ブッダと共鳴できる点を、明確に見つけてみたくなった。
★1〉昨日、親鸞の今際の際の言葉を取り上げたので、同じくゴータマ・ブッダの今際の際の言葉。
ゴータマ・ブッダを食あたりさせてしまって泣いている鍛冶屋の息子チュンダに伝えた言葉。
「泣くことはない。オマエの料理を食べたからワタシは死ぬんじゃない。人間生まれた者は必ず死ぬ。これが因縁の法だ。だから、オマエのモノを例え食べなくてもワタシは他の縁で死ぬに決まっている。だから、オマエのせいじゃない。この歳までに、思い出に残る供養が二つあった。一つは、スジャータから乳粥をもらって元気をつけ、悟りを開くことができたこと。もう一つは、チュンダ、オマエのご馳走の供養だ。オマエによって、ワタシはいつの日か死ななければならなかったのだけれども、その自分が死ぬという重大なキッカケを、オマエが与えてくれたのだから、嘆くことはない」
つまり、「この世は不条理なもの。どんな死に方をしても、それはタタリとかバチじゃない。縁によって死ぬんだ」という教えているとか。
そして、弟子たちに向かって、「オマエたちは、葬式に関わらなくてイイ」と言って息絶えたとか。
★2〉ゴータマ・ブッダが説いたどう生きるか?についての簡便な体得方法。
①「厳粛」…無常観。今は今しかない。今は帰ってこない。今を大切に生きるべき→ここに今、存在するということは容易な事実ではなく、極めて稀有なこと。有ることが難しいこと。つまり、「有り難しのこと」→「ありがとう」。
②「敬虔」…自分一人の力だけで生きているのではない。「おかげさま」で生かしていただいている側面がある→過ちを犯したから謝るのではなく、「おかげ」に対するご恩返しが済んでいない→「済みません」、すなわち、「すみません」。
③「邂逅」…出会い、巡り合わせ、によって人生は変わる→天地が与えてくれた巡り合いは肯定的に受入れるしかない→「はい」。
そう、日常の挨拶言葉どおりに、人間は簡潔明瞭に日々生きればイイだけ。
★3〉農繁期においてのゴータマ・ブッダによる「耕田の経」。
「猫の手も借りたいほど忙しいんだ。アナタも、一つ耕したらどうだ」
「ワタシも耕している」
「鋤も鍬も持ってないじゃないか?」
「ワタシはアナタの心を耕している農夫だよ。智慧こそ我が耕す鋤だよ」
「?」
「アナタが種を蒔く。すると、芽も出るだろうけど、雑草も生えてくる。その雑草をどうする?」
「雑草を放っておいたら稲がダメになるから、抜き取るに決まってるだろ」
「抜き取った雑草はどうする? 棄てるのだろ?」
「何も知らないんだな。雑草を取って土に埋めれば肥やしになるのさ」
「人間の煩悩も同じだよ。取って心に埋めてやれば、それが悟りの肥やしになるんだよ」
★4〉ゴータマ・ブッダの「最後の旅」。
「この世で自らを島(中州)とし、自らを頼りとして、他人を頼りにせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のモノをよりどころとせずにあれ」
そして、「法句経」の160番の聖句。
「オノレこそオノレの寄る辺、オノレを措きて誰に寄る辺ぞ」
どうだろう?
ほんのごく一部でも、ゴータマ・ブッダの教えを感じるには、もう十分なのでは?
人間は、生まれた瞬間から、死に向かって歩き始める儚い存在。
どんなに希望を持とうが、一寸先の未来がわからない不安や自分の思いどおりに習い不満などの苦を背負ろうが、たった一つ確かなことは、生きることも死ぬことも自分の問題だということ。
となると、どう生きるべきなのか?
「心ある人の法(真理)は老ゆることナシ」
そう、心に法のある人、学び続ける人は、心がフレキシブルでピュアだから、心がいつもフレッシュで老化しない。
それゆえ、人生での事実や現実をそのまま淡々と無常として受入れ、なおかつ自分自身で前向きに生きていくしかないのである。

For Japanese people, it would be fun to talk about Buddha's teachings on Christmas(日本人なら、Xmasに釈尊の教えを語り合うのも一興)!
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東仙坊 

東仙坊 tohsenboh.jp
コピーライター歴三十有余年。人間通の東仙坊が、人間の弱気と恥ずかしい業が生む、情けなくてみっともない犯行を、徹底的に追及、究明。

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