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甘ちゃんアマチュア探偵団

情報化が模倣犯罪、劇場型犯罪を助長しているなら、犯罪抑止、犯罪摘発も、精度の高い情報がすべて。このブログは、人間通を自負するコピーライター東仙坊が迅速な犯人検挙のために、人間的プロファイリングをするものである。

恒久不変な日本砂漠-46  本当に地球上の人間社会は「ワンチーム」なのか?

Japan's path to becoming a militaristic nation began with the choice of a German-style monarchy over French-style liberty and British-style constitutional reform(フランス流自由よりも、UK流立憲改進よりも、ドイツ流君主制を選んだことから始まる、我が日本の軍事国家への道)!

■世界は一つと寝言をのたまわっているヒトたちは、893国家やマフィア国家やチンピラ国家が好き勝手に世界を蹂躙している現実をどう感じているのか?

●人類が今までに創設した数々の国際機関には、自国から落ちこぼれた無能な官僚どもが集まっているということを、日本人も頭に入れて置く必要がある。

○日本が、世界の人々の訪れたい国NO.1になったのは、国や地方自治体が、オリンピックや万博などの巨大イベントを開催したからでも、いろいろなゆるキャラを作っていろいろなイベントで集客しているからでもなく、世界に誇る世界で8番目の「日本文明」を見事に開花させているからではないのか?

「岩倉具視大使節団」が、選り取り見取り状態で、1年9ヵ月の欧米視察の結果、選び抜いたのがドイツ。
その理由は、いたって簡潔明瞭。
「尊王」を錦に御旗に、「天皇の権限を利用して、人民をコントロールする支配体制を築くこと」がメイン・ゴールであることから、明治維新政府、天皇を通じ、国会開設し、憲法を作成し、一気にドイツに習って近代化を成就しようと考えたからである。
実際、タイミングが、イヤイヤ、何か得体の知れないエネルギーのようなものが、そう運命的に導いたのかもしれない。
ちょうど来欧している最中の1871年、プロイセンが、オットー・フォン・ビスマルク首相の強いリーダーシップにより「普仏戦争」に勝利し、ドイツ帝国として成立させるのを目撃するのである。
それだけじゃない。
「岩倉具視大使節団」の面々は、プロイセン首相に加えドイツ帝国宰相になって「万国公法よりも力の理論」を説くオットー・フォン・ビスマルクの「国家の統一に必要なのは、鉄と血、つまり、兵器と兵士である」という鉄血演説を聴き、強く感銘し、「これだ。この『ドイツ帝国』の君主制の強い憲法『プロイセン憲法』を範にして軍事国家を目指すのだ」と決意したとか。
なかでも、労働者が社会主義労働者党に流れるのを防止するために、1883年、疾病保険法、1884年、労災保険法、1888年、障害・老齢保険法を成立させ、世界初の全国民強制加入の社会保険制度を創出したドイツ流儀にメチャクチャ感服してしまったとか。
ともあれ、彼らは、帰国後、基本的にドイツを模範にして、政治形態を構築しようと試行錯誤し、1890年を期して国会開設することを約束した「国会開設の勅諭」を明治天皇の名前で宣言。
それでも、我が国の国内では、自由民権運動が活発化。
一院制・主権在民・君主のいない共和制のフランス流「自由党(党首・板垣退助)」、ニ院制・君主の権限が制限されている立憲君主制のイギリス流「立憲改進党(一度追放された党首・大隈重信)」などがかなり台頭。
そのために、この2党が憲法作成に加わると、天皇の権限が著しく低下するだけでなく、人民に主導権を奪われてしまうと危惧した明治政府は、民権派に対抗すべくドイツの「プロイセン憲法」をモデルに憲法草案作成をプラン。
岩倉具視が、伊藤博文にドイツ帝国へ憲法調査に向かうよう命令。
1882年、憲法調査団伊藤博文、西園寺公望らは憲法調査のためにドイツに向けて横浜を出港、イタリアのナポリを通って、ベルリンに到着。
到着して間もなく、伊藤博文は、オットー・フォン・ビスマルク首相に面会。
「我々は、憲法調査のために欧州にやってきた。ベルリンはその拠点にしたい」
「できる限りの協力は惜しまない」
そう言って、オットー・フォン・ビスマルク、ドイツ法曹界最高権威ベルリン大学教授グナイスト、ウィーン大学シュタインなどから、ドイツ「プロイセン憲法」の概要について講義をさせる協力。
さらに、ドイツ国法学・行政学者でベルリン市裁判所判事アルベルト・モッセにも講義させ、しかも、その後の1886年、お雇い外国人として来日させ、内務省法律顧問として就任させたとか。
そのうえで、山縣有朋を中心に市制・町村制を制定させるなど日本の地方自治制度の確立に尽力させたとか。
とにもかくにも、憲法調査団一行は、1883年、帰国。
翌1884年から、伊藤博文は、「プロイセン憲法」を手本に本格的な憲法草案に着手。
そして、これまたお雇い外国人の一人のドイツ人顧問カール・フリードリヒ・ヘルマン・ロエスエルの指導の下、何度も加筆修正を加えながらどんどん起草。
1885年、内閣制度が発足され、伊藤博文が、初代内閣総理大臣に就任。
1889年、「憲法の番人」として枢密院を設置し、伊藤博文は黒田清隆に内閣を譲り、その枢密院議長に就任し憲法作成の最終段階に入り、大日本帝国憲法を欽定憲法として、明治天皇が黒田清隆首相に手渡すカタチで発布。
我が日本が、近代憲法を持つアジア初の国になったとか。
もっとも、憲法の規定する帝国議会は、貴族院と衆議院のニ院制、衆議院選挙権は直接国税15円以上の一部の納入者(全人口の1.1%)にしか与えられず、国民が主体に政治に参加する民主主義とはかけ離れたものだったとも。

It seems that the basis of our country's politics lies in how to use the emperor to silence the people(我が国の政治の根幹は、天皇をどう活用して国民を黙らせるかにあるようである)!

To be continued...











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東仙坊 

東仙坊 tohsenboh.jp
コピーライター歴三十有余年。人間通の東仙坊が、人間の弱気と恥ずかしい業が生む、情けなくてみっともない犯行を、徹底的に追及、究明。

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