たびたび大洪水襲来のある日本砂漠-4 「猿のスケ」の醜悪このうえない猿芝居的大団円!!! 〈1〉
I am struck by the appearance of self-proclaimed intellectuals who are demanding that Kabuki actors, whose names are still mostly hereditary, be given privileges as artists because it must be a traditional theater of our country(我が国の伝統演劇だからと、そのいまだ世襲制がほとんどの名跡を持つ歌舞伎役者たちに、アーティストとしての特権を与えろと言い出す自称知識人たちが現われて、東仙坊、目が点になっている)!
■「歌舞伎」を必要以上に日本の伝統演劇と崇高化すると、勘違いし思い上がった歌舞伎役者どもが蛮行に走るのが、この21世紀!!
●歌舞伎役者どもに、本来、「普通ではない振る舞いや身なりのヒト」、つまり、軽挙妄動をしがちな「サイコパス」や「パラノイア」が多いのは、ごく当たり前!
○東仙坊、無能な政府が、煮え切らない政治屋どもが、「猿のスケ」による三文一人芝居的ミステリアスな「心中事件(???)」が大々的に取り上げられないように、警察庁や警視庁、おバカメインストリームメディアどもに、相当な圧力をかけているのでは?と疑っている。
それはそうである。
長らく懸案のG7広島サミット前に成立させたい「LGBTの人たちへの理解を増進するための議員立法(?)」が、超党派の議員連盟がまとめていた法案の差別に関する「差別は許されない」という文言を「不当な差別はあってはならない(?)」などと変更した修正案を正式に了承し、今国会中の成立が見えてきた矢先なので、事件の内容的にメチャクチャ避けたかったはず。
というのも、レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダー(トランスセクシャル)などの多様性を尊重し合い、すべての人々がお互いの人権や尊厳を大切にし合い、生き生きとした人生を享受できる社会の実現に向けての法案だから、なおさら。
もっとも、東仙坊、あえて言わせてもらえば、「LGBTを性的少数者」とくくること、「正当な差別はOK」みたいに思わせることに、かなり抵抗を覚えるが…。
それはそうだと思わないか?
ナニゴトにも極めて大らかな我が国の国民、もちろん、性にも大らか。
それゆえ、能力のある男性の「稚児(公家・神社・寺院・武家などに召し使われた男色の相手の少年)」、多妻など、遠い昔から当然。
一般女性だって、「ヨサコイ、ヨサコイ」とエンジョイ・sexライフが、日常。
すべては文明開化で、ヨーロッパをパクって一夫一婦制を徴税の便利さから選択したこと、モスリムをパクっていたら一夫四婦だったのでは?
LGBTだって、サテュリコンの古代ローマ時代からなのだから、とっくに隠れマジョリティなのかもしれないのでは?
さて、「猿のスケ」による、一人演出(?)、一人観客(??)、自分と年老いた両親の3人出演(???)の一世一代の無理心中もどきのそれぞれ自殺と自殺未遂(?)の大芝居に触れる前に、「猿のスケ」のテリトリーである「歌舞伎」について、簡便にまとめておきたい。
◉「歌舞伎」とは、近世初期(安土桃山時代)に誕生した、日本の伝統的な演劇の1つ。
17世紀初期、「歌舞伎の祖」とされるのが、出雲大社巫女だった女性芸能者「阿国(オクニ)」。
何でも、出雲国杵築中村の里の鍛冶中村三右衛門の娘の「阿国」が、出雲大社の修繕費用集めを目的に、カワイらしい少女の小歌踊りの「ややこ踊り」を基にして、1603年、「かぶき踊り」である「阿国歌舞伎」を創始したのだとか。
そして、出雲大社勧進のため諸国を巡回し大人気になったとか。
「阿国」の「かぶき踊り」は、名古屋山三郎役の男装した「傾奇者(かぶきもの)」の「阿国」が、茶屋の娘役として女装した「阿国」の夫三九朗が濃密に戯れる、茶屋遊びを表現したエロティックなもので、それがドンドン過激化し、質的にも変化。
そして、観客は、そのセクシャルな倒錯感に高揚し、最後には、「風流踊り」や「念仏踊り」、出演者と観客が入り乱れ熱狂的に踊って大団円を迎える破廉恥なものになったとか。
それから、一座の他の踊り手も全て異性衣装を特徴とするようになったとも。
それらのことから、「女歌舞伎」、「若衆歌舞伎」などとと変遷し、ついには、城下町に必ずあった遊里の「遊女屋」に取り入れられ、男装した遊女と遊女の猥雑なかけ合いに三味線による囃子がつき、客にとっての遊女の品定めの場になったとか。
そもそも、「歌舞伎」の語源は、「歌舞(歌ったり舞ったりすること)」に、動詞「傾(かぶ:頭)く、かたむく、頭をかしげる/勝手な振る舞いをする、奇抜な身なりをする/歌舞伎を演じる」の連用形が名詞化し、「かぶき」という言葉が生まれたのだとか。
そして、舞妓の「妓」と同じ漢字が当てられ、「歌や舞をする女性」を意味する「歌舞妓」という文字を使用していたものが、近代になって、「歌舞伎」という言葉になったものだとも。
ともあれ、1629年、江戸幕府が、風紀紊乱の取り締まり、寺社ですでに徹底されていた「女人禁制」との整合性、および、江戸時代になって制度としても全面的に強くなり始めていた「男尊女卑」の傾向から、女性芸能者が舞台に立つことを禁止されたことから、「歌舞伎」も男性芸能者だけで演じることになったのだとか。
I am fully aware that drinking both the pure and the dirty is a more humane and well-balanced human being. However, isn't there some kind of broken line in your head to give you the advantage as an artist and the right of extraterritoriality just like an actor in a classical theater(清濁併せ吞むことが、より人間的でバランスのいい人間であることは百も承知している。けれども、たかが古典演劇の役者ごときに、アーティストとしてのアドバンテージや治外法権の権利を与えろとは、どこか頭の中の線が切れているのでは)?
To be continued...
■「歌舞伎」を必要以上に日本の伝統演劇と崇高化すると、勘違いし思い上がった歌舞伎役者どもが蛮行に走るのが、この21世紀!!
●歌舞伎役者どもに、本来、「普通ではない振る舞いや身なりのヒト」、つまり、軽挙妄動をしがちな「サイコパス」や「パラノイア」が多いのは、ごく当たり前!
○東仙坊、無能な政府が、煮え切らない政治屋どもが、「猿のスケ」による三文一人芝居的ミステリアスな「心中事件(???)」が大々的に取り上げられないように、警察庁や警視庁、おバカメインストリームメディアどもに、相当な圧力をかけているのでは?と疑っている。
それはそうである。
長らく懸案のG7広島サミット前に成立させたい「LGBTの人たちへの理解を増進するための議員立法(?)」が、超党派の議員連盟がまとめていた法案の差別に関する「差別は許されない」という文言を「不当な差別はあってはならない(?)」などと変更した修正案を正式に了承し、今国会中の成立が見えてきた矢先なので、事件の内容的にメチャクチャ避けたかったはず。
というのも、レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダー(トランスセクシャル)などの多様性を尊重し合い、すべての人々がお互いの人権や尊厳を大切にし合い、生き生きとした人生を享受できる社会の実現に向けての法案だから、なおさら。
もっとも、東仙坊、あえて言わせてもらえば、「LGBTを性的少数者」とくくること、「正当な差別はOK」みたいに思わせることに、かなり抵抗を覚えるが…。
それはそうだと思わないか?
ナニゴトにも極めて大らかな我が国の国民、もちろん、性にも大らか。
それゆえ、能力のある男性の「稚児(公家・神社・寺院・武家などに召し使われた男色の相手の少年)」、多妻など、遠い昔から当然。
一般女性だって、「ヨサコイ、ヨサコイ」とエンジョイ・sexライフが、日常。
すべては文明開化で、ヨーロッパをパクって一夫一婦制を徴税の便利さから選択したこと、モスリムをパクっていたら一夫四婦だったのでは?
LGBTだって、サテュリコンの古代ローマ時代からなのだから、とっくに隠れマジョリティなのかもしれないのでは?
さて、「猿のスケ」による、一人演出(?)、一人観客(??)、自分と年老いた両親の3人出演(???)の一世一代の無理心中もどきのそれぞれ自殺と自殺未遂(?)の大芝居に触れる前に、「猿のスケ」のテリトリーである「歌舞伎」について、簡便にまとめておきたい。
◉「歌舞伎」とは、近世初期(安土桃山時代)に誕生した、日本の伝統的な演劇の1つ。
17世紀初期、「歌舞伎の祖」とされるのが、出雲大社巫女だった女性芸能者「阿国(オクニ)」。
何でも、出雲国杵築中村の里の鍛冶中村三右衛門の娘の「阿国」が、出雲大社の修繕費用集めを目的に、カワイらしい少女の小歌踊りの「ややこ踊り」を基にして、1603年、「かぶき踊り」である「阿国歌舞伎」を創始したのだとか。
そして、出雲大社勧進のため諸国を巡回し大人気になったとか。
「阿国」の「かぶき踊り」は、名古屋山三郎役の男装した「傾奇者(かぶきもの)」の「阿国」が、茶屋の娘役として女装した「阿国」の夫三九朗が濃密に戯れる、茶屋遊びを表現したエロティックなもので、それがドンドン過激化し、質的にも変化。
そして、観客は、そのセクシャルな倒錯感に高揚し、最後には、「風流踊り」や「念仏踊り」、出演者と観客が入り乱れ熱狂的に踊って大団円を迎える破廉恥なものになったとか。
それから、一座の他の踊り手も全て異性衣装を特徴とするようになったとも。
それらのことから、「女歌舞伎」、「若衆歌舞伎」などとと変遷し、ついには、城下町に必ずあった遊里の「遊女屋」に取り入れられ、男装した遊女と遊女の猥雑なかけ合いに三味線による囃子がつき、客にとっての遊女の品定めの場になったとか。
そもそも、「歌舞伎」の語源は、「歌舞(歌ったり舞ったりすること)」に、動詞「傾(かぶ:頭)く、かたむく、頭をかしげる/勝手な振る舞いをする、奇抜な身なりをする/歌舞伎を演じる」の連用形が名詞化し、「かぶき」という言葉が生まれたのだとか。
そして、舞妓の「妓」と同じ漢字が当てられ、「歌や舞をする女性」を意味する「歌舞妓」という文字を使用していたものが、近代になって、「歌舞伎」という言葉になったものだとも。
ともあれ、1629年、江戸幕府が、風紀紊乱の取り締まり、寺社ですでに徹底されていた「女人禁制」との整合性、および、江戸時代になって制度としても全面的に強くなり始めていた「男尊女卑」の傾向から、女性芸能者が舞台に立つことを禁止されたことから、「歌舞伎」も男性芸能者だけで演じることになったのだとか。
I am fully aware that drinking both the pure and the dirty is a more humane and well-balanced human being. However, isn't there some kind of broken line in your head to give you the advantage as an artist and the right of extraterritoriality just like an actor in a classical theater(清濁併せ吞むことが、より人間的でバランスのいい人間であることは百も承知している。けれども、たかが古典演劇の役者ごときに、アーティストとしてのアドバンテージや治外法権の権利を与えろとは、どこか頭の中の線が切れているのでは)?
To be continued...