緊急プロファイリング 母親による牛乳アレルギー5歳一人娘牛乳での殺人未遂事件
When there is no spirit of own sacrifice, one doesn't get away for a good mother(自己犠牲の精神がなければ、いい母親にはなれない)!
東仙坊がプロファイリングするこの事件の問題の本質。
1人の男と女が出遭い、やがて結婚する。
これについては、一夫一婦制やLGBTのことは棚に上げておき、人類誕生以来続けられているごく普通の定番的行動。
それぞれのヒトびとがそれぞれに出遭い、結果的にそうなることはそれぞれの責任問題で、他人が決して関知すべきものではないはず。
そもそも、恋愛自体が、「蓼食う虫も好き好き」と「アバタもエクボ」がベースだから、当事者同士にしか絶対に理解できないはず。
その意味でも、この鬼母が、いつ?どこで?夫となるオトコと知り合いなぜ?いつ?どこで?結婚したかについても、不問にしたい。
一番のポイントは、この鬼母が30歳になって子どもを産んだこと。
つまり、産む前に、どう子どもを育てるのか?とか、子どもの将来設計をどうするか?と、どのくらい夫と話し合ったのか?
もちろん、経済的に、物質的に、精神的に…。
もし本当に話し合っていたのなら、娘が5歳とカワイイ盛りなのに、なぜ別居しているのか?
その意味では、その別居理由は大きな意味を持っているはず。
これまた定番の性格の不一致なのか? 性の不一致なのか? 夫の不倫なのか? 自分の不倫なのか? 夫の甲斐性のなさなのか? 舅や姑の問題なのか? 近ごろ、やたらと多い自分のスペースを欲しがっただけなのか?
どうあれ、その際に、自分たちのまだたった5歳の娘の養育と未来について、どれだけ話し合ったのか?
今のバカ親らしく、その確固たる1人の人格と存在など一切無視し、自分たちの気分だけを優先しただけなのでは?
まるで、我が子をペットかロボット、イヤ、単なるモノにみなして…?
どちらにしても、鬼母はもちろん、その父親、昨今の「孫はカスガイ」のはず両方の祖父母、それらの愛情の匂いが全くしてこないのも気にならないか?
どうあれ、この悲劇的な5歳幼女の鬼母とその父親が人間として成熟していなかったことだけは確か。
特に、影さえも見えてこない父親は、一人前の男ではないのでは?
とにもかくにも、東仙坊、この鬼母をフォーカスするために、そのブログに注目。
そこで、気になったことは、やはり、そのジコチュウ度。
①自分で、自分を「何事もガンバってしまう性格」とか、「仕事と家事育児で精一杯で自分の時間が持てない」と嘆いている甘さ。
②滑り台で、「ママも滑ってもいい?」と尋ねることが、子どもとのコミュニケーションと勘違いしている幼稚さ。
この鬼母、もう一度娘に戻って母親から躾をきちんと受けるべきなのでは?
そして、その決定的なジコチュウ的バカなプライドが、「カルトナージュ(厚紙で組み立てた箱などに紙や布を貼り付けて仕上げるフランスの伝統的な手芸)、ラシェリボン(リボンワークの一種)、日本ホームスタイリング協会のディプロマ(資格証)を取得しました。来年から、読売かるちゃー金町の公開講座の講師になります」という自己顕示。
好きなことで自分らしく働くキャリアウーマンを自慢したいのかも知れないが、それが何?
それ以上に、致命的な甘えと幼稚さが鮮明に表われているのが、千葉県柏児童相談所なる何の役にも立たないところに出向いているということ。
そのような無機質な場所に、ヒューメインで慧眼で含蓄を持つ人間がいるワケもないのでは?
実際、何かいいアドバイスを受けたり、いいサジェスチョンをもらえたのか?
かえって当惑するようなハメになっただけなのでは?
さらに、呆れるのが、千葉県警流山署にまで相談に行ったということ。
対応のできない無能警察、「子どもを連れて署に相談にきている」と千葉県柏児童相談所に連絡しただけなのでは?
そのときすら、千葉県柏児童相談所は、警察にまで飛んでこず、「問題はない」と答えたというのでは?
とにかく、鬼母自身、人を見る鑑識眼のない未熟なオコチャマだったのでは?
その意味で、せめて子どもを産む前に、本物の人間力を磨いてほしかったと思わないか?
そう、子どもを産む最低限の自覚を、子どものためにすべてを犠牲にする覚悟を身につけられないのなら、産むべきではなかったのでは?
Child rearing must be the last selfless devotion to country(子育てとは、究極の滅私奉公)!