検証プロファイリング 静岡御殿場連続女性殺人事件-3
If a human being becomes servile, anybody could build the true human relations(人間は卑屈になると、本当の人間関係は築けない)!
東仙坊、我が日本人の凛とした矜持を取り戻し、モラルを再生しようとブログを書き込んでいる。
その原動力になっているのは、生まれて初めてサイパン島を訪ね、バンザイ・クリーフから下を見降ろした瞬間に感じた「something special(何か)」、スピリットのどこかで感じたインスピレーションのようなもの。
それは、いくら潔く人生の儚さを熟知したはずの日本人でも、それが軍人だろうが民間人だろうが、あの崖から海にジャンプしたら絶対にいけないという感覚だった。
人生には、dead or alive(死ぬか生きるか)だけではない「something important(何か)」があったはず。
実は、今、それこそが世界中で必要とされているもので、あのとき我が日本人が後ほんの少し魂を昇華させれば手の届くものだったはず。
それをあの崖からジャンプしたことによって、とことん生の生きることの残酷さや忍耐に背を向け、命懸けで戦うことの苦悶や恥や泥臭さを凝視することを避け、卑屈に逃げ回るようになってしまったのでは?
もし崖からジャンプせず、冷静沈着かつ無様に虜囚の辱めを受けていれば、USAとも真の友だちになれ本当の協調関係が創れたと思っているのは、東仙坊だけではないと思うが…。
どうあれ、生ある限りひたすら恣意的に生きることこそが宿命で、何人も生を自ら寸断したり、他人の生を寸断してはいけないはず。
そして、そのタブーを犯した人間には、究極の厳罰を簡単に与えていいと思わないか?
■静岡御殿場連続女性殺人事件
●東仙坊がプロファイリングする、この事件の不可解な点
①この事件のホシである桑田一也なる三流ポン引きクソッタレのごとく、すぐにシリアルキラーに変貌してしまうタイプのオトコに見られる共通点…。
東仙坊、甘ちゃんアマチュア探偵団を設立し、懸命に殺人事件プロファイリングを実行してきて、確認できたことがある。
地方都市で、殺人犯になる、とりわけシリアルキラー化するサイコパスに象徴的に見られる顕著な特徴。
それは、大都会、海外に行って勉強したり働いたりしようとしないばかりか、その人生のパートナーまで身近で見繕う(?)傾向。
そして、簡単に子どもを作る、いやデキちゃって産んでしまう傾向。
つまり、アドベンチャーと言わないまでも、リスクを持ってチャレンジをしない内向きで狭小的な性向。
それでいて、金、金、金の拝金主義や市場原理主義に毒されていて、その成功欲や野心を持ち続けている性向。
さらには、自分の人生のパートナーであったはずの妻をいつのまにか子育てのための母親役としての自分の所有物としか扱わなくなる性向。
実際、この三流ポン引きクソッタレ、少なくとも23歳で父親になっており、33歳で自分の土地、建物、会社を持っていた。
では、その資金を全部自分で用意したのか?
どう考えても、どちらかの親もしくは双方の親が相当援助していたと考えるべきでは?
その子どもへの脆弱で事なかれ的対処法が、三流ポン引きクソッタレを殺人犯に育てていったと感じるのは、東仙坊だけではあるまい。
②誰もがこの三流ポン引きクソッタレの事件で気になるのが、その20年以上妻(?)でいた妻なる女性の立ち位置。
それはそうだと思わないか?
何しろ、三流ポン引きクソッタレ、自分と言う妻がありながら、結婚詐欺的アプローチを何人もの女性にし、卑劣かつ卑怯に2人の若い女性を殺害しているのである。
それは道義的にというだけでなく、一人の人間としての責任を放棄していたことになるのでは?
逆に、その責任を果たそうとしていたら、2人の女性が無残に殺害されることもなかったのでは?
東仙坊、公言通り、いかなる犯罪者の家族にも責任はないというスタンスを変えるつもりはないが、この三流ポン引きクソッタレの妻が、きちんと自分の夫と対峙し、成熟した一人の人間としての責任を果たそうとしていれば、殺人だけは阻止できたと思ってしまうのだが、どうだろう?
少なくとも、それがなかったからこそ、三流ポン引きクソッタレが自分の妻のそばに殺害した女性の遺体を放置できたということだけは間違いないはず。
③東仙坊的に、どうしても理解できないのことの一つが、警察、この場合の静岡県警の基本的能力そのもの…。
すでに指摘してきた通り、この三流ポン引きクソッタレが犯した稚拙でジコチュウ的殺人事件2件がかなりの高い確率で完全犯罪になっていたことには、どうしてもガマンができない。
それはそうだと思わないか?
若い女性が突然失踪する。
そのとき、自動的に第一「suspect(サスペクト:容疑者)」になるのが直前までつき合っていた(?)オトコになるのは自明の理。
しかも、そのオトコが既婚のうだつの上がらない金に困った年上のオトコだったら、ほとんど確信犯なのでは?
にもかかわらず、なぜ三流ポン引きクソッタレはすぐに追い込まれなかったのか?
とりわけ、最初の事件を徹底的に解明すれば、第2の殺人が阻止できたことは、当然なのでは?
確かに、捜査で重要なのは、物的証拠とその科学的な解明。
そのためにも、その動機と状況証拠から、ありとあらゆる角度で検証すれば、必然的に物的証拠が見つかると思わないか?
なぜなら、誰もがパーフェクトではないはずだから。
それには、その動機と状況証拠からの無限のイマジネーションがいるはず。
特に、この三流ポン引きクソッタレのような稚拙な犯罪には、より一層それが重要なはず。
どうやらこのあたりに今の警察の無能さあると思わないか?
どうあれ、9月21日、この三流ポン引きクソッタレの詐欺と詐欺未遂の罪に関し、静岡地裁沼津支部(岡田龍太郎裁判官)で、懲役3年、執行猶予4年(求刑・懲役3年)の判決があったが、いまだに2件の殺人に関しては公判が開かれていない。
凄く不安では?
④東仙坊的に、どうしても理解できないのことのもう一つが、やはり2人の22歳と26歳の被害女性のマインド…。
2人は、一体全体、三流ポン引きクソッタレの何を見て、何を感じ、何を信じ、あるいは何に盲目になったのか?
もちろん、蓼喰う虫も好き好き。
人の恋愛にとやかく言う気は毛頭ないが、本当に恋愛なのか?
恋愛には、ありとあらゆるリスクがともなうものでは?
そして、本当の恋愛をするには、そのリスクを超越する鑑識眼、審美眼、洞察力、大局観が絶対に不可欠なのでは?
それには、本気で見つめ合う時間が大切なのでは?
まさか愛し合うことが、そのとき気分のいいこと? そのとき気持ちのいいこと? そのときの自己満足?、そんなものと思っていたのではないと思いたいが…。
恋愛の持つ最大のメリットは、お互いに成長し合えること。
つまり、関わった相手がより魅力的になること。
自分が不自由になっても、相手をどこまでも自由にさせること。
それには、ウソなどついているヒマなどないほど、本気であること。
どちらにしても、本気に人を見つめれば、イヤでもウソを感じると思わないか?
何より、いつも本気で目を見開くことが、恋愛の絶対条件だと思うが…。
そのときの孤独感、空虚感からだけでは、目を閉じてしまっては恋愛ができないと思わないか?
どうあれ、2人の若い女性のたった一度の人生が、こんな粗末な三流ポン引きクソッタレによって寸断されてしまうのが、今の日本の実情なのでは?
You could find out the lie of the partner naturally if you keep open your eyes seriously(本気で目を開いていれば、自然に相手のウソを見破れる)!
東仙坊、我が日本人の凛とした矜持を取り戻し、モラルを再生しようとブログを書き込んでいる。
その原動力になっているのは、生まれて初めてサイパン島を訪ね、バンザイ・クリーフから下を見降ろした瞬間に感じた「something special(何か)」、スピリットのどこかで感じたインスピレーションのようなもの。
それは、いくら潔く人生の儚さを熟知したはずの日本人でも、それが軍人だろうが民間人だろうが、あの崖から海にジャンプしたら絶対にいけないという感覚だった。
人生には、dead or alive(死ぬか生きるか)だけではない「something important(何か)」があったはず。
実は、今、それこそが世界中で必要とされているもので、あのとき我が日本人が後ほんの少し魂を昇華させれば手の届くものだったはず。
それをあの崖からジャンプしたことによって、とことん生の生きることの残酷さや忍耐に背を向け、命懸けで戦うことの苦悶や恥や泥臭さを凝視することを避け、卑屈に逃げ回るようになってしまったのでは?
もし崖からジャンプせず、冷静沈着かつ無様に虜囚の辱めを受けていれば、USAとも真の友だちになれ本当の協調関係が創れたと思っているのは、東仙坊だけではないと思うが…。
どうあれ、生ある限りひたすら恣意的に生きることこそが宿命で、何人も生を自ら寸断したり、他人の生を寸断してはいけないはず。
そして、そのタブーを犯した人間には、究極の厳罰を簡単に与えていいと思わないか?
■静岡御殿場連続女性殺人事件
●東仙坊がプロファイリングする、この事件の不可解な点
①この事件のホシである桑田一也なる三流ポン引きクソッタレのごとく、すぐにシリアルキラーに変貌してしまうタイプのオトコに見られる共通点…。
東仙坊、甘ちゃんアマチュア探偵団を設立し、懸命に殺人事件プロファイリングを実行してきて、確認できたことがある。
地方都市で、殺人犯になる、とりわけシリアルキラー化するサイコパスに象徴的に見られる顕著な特徴。
それは、大都会、海外に行って勉強したり働いたりしようとしないばかりか、その人生のパートナーまで身近で見繕う(?)傾向。
そして、簡単に子どもを作る、いやデキちゃって産んでしまう傾向。
つまり、アドベンチャーと言わないまでも、リスクを持ってチャレンジをしない内向きで狭小的な性向。
それでいて、金、金、金の拝金主義や市場原理主義に毒されていて、その成功欲や野心を持ち続けている性向。
さらには、自分の人生のパートナーであったはずの妻をいつのまにか子育てのための母親役としての自分の所有物としか扱わなくなる性向。
実際、この三流ポン引きクソッタレ、少なくとも23歳で父親になっており、33歳で自分の土地、建物、会社を持っていた。
では、その資金を全部自分で用意したのか?
どう考えても、どちらかの親もしくは双方の親が相当援助していたと考えるべきでは?
その子どもへの脆弱で事なかれ的対処法が、三流ポン引きクソッタレを殺人犯に育てていったと感じるのは、東仙坊だけではあるまい。
②誰もがこの三流ポン引きクソッタレの事件で気になるのが、その20年以上妻(?)でいた妻なる女性の立ち位置。
それはそうだと思わないか?
何しろ、三流ポン引きクソッタレ、自分と言う妻がありながら、結婚詐欺的アプローチを何人もの女性にし、卑劣かつ卑怯に2人の若い女性を殺害しているのである。
それは道義的にというだけでなく、一人の人間としての責任を放棄していたことになるのでは?
逆に、その責任を果たそうとしていたら、2人の女性が無残に殺害されることもなかったのでは?
東仙坊、公言通り、いかなる犯罪者の家族にも責任はないというスタンスを変えるつもりはないが、この三流ポン引きクソッタレの妻が、きちんと自分の夫と対峙し、成熟した一人の人間としての責任を果たそうとしていれば、殺人だけは阻止できたと思ってしまうのだが、どうだろう?
少なくとも、それがなかったからこそ、三流ポン引きクソッタレが自分の妻のそばに殺害した女性の遺体を放置できたということだけは間違いないはず。
③東仙坊的に、どうしても理解できないのことの一つが、警察、この場合の静岡県警の基本的能力そのもの…。
すでに指摘してきた通り、この三流ポン引きクソッタレが犯した稚拙でジコチュウ的殺人事件2件がかなりの高い確率で完全犯罪になっていたことには、どうしてもガマンができない。
それはそうだと思わないか?
若い女性が突然失踪する。
そのとき、自動的に第一「suspect(サスペクト:容疑者)」になるのが直前までつき合っていた(?)オトコになるのは自明の理。
しかも、そのオトコが既婚のうだつの上がらない金に困った年上のオトコだったら、ほとんど確信犯なのでは?
にもかかわらず、なぜ三流ポン引きクソッタレはすぐに追い込まれなかったのか?
とりわけ、最初の事件を徹底的に解明すれば、第2の殺人が阻止できたことは、当然なのでは?
確かに、捜査で重要なのは、物的証拠とその科学的な解明。
そのためにも、その動機と状況証拠から、ありとあらゆる角度で検証すれば、必然的に物的証拠が見つかると思わないか?
なぜなら、誰もがパーフェクトではないはずだから。
それには、その動機と状況証拠からの無限のイマジネーションがいるはず。
特に、この三流ポン引きクソッタレのような稚拙な犯罪には、より一層それが重要なはず。
どうやらこのあたりに今の警察の無能さあると思わないか?
どうあれ、9月21日、この三流ポン引きクソッタレの詐欺と詐欺未遂の罪に関し、静岡地裁沼津支部(岡田龍太郎裁判官)で、懲役3年、執行猶予4年(求刑・懲役3年)の判決があったが、いまだに2件の殺人に関しては公判が開かれていない。
凄く不安では?
④東仙坊的に、どうしても理解できないのことのもう一つが、やはり2人の22歳と26歳の被害女性のマインド…。
2人は、一体全体、三流ポン引きクソッタレの何を見て、何を感じ、何を信じ、あるいは何に盲目になったのか?
もちろん、蓼喰う虫も好き好き。
人の恋愛にとやかく言う気は毛頭ないが、本当に恋愛なのか?
恋愛には、ありとあらゆるリスクがともなうものでは?
そして、本当の恋愛をするには、そのリスクを超越する鑑識眼、審美眼、洞察力、大局観が絶対に不可欠なのでは?
それには、本気で見つめ合う時間が大切なのでは?
まさか愛し合うことが、そのとき気分のいいこと? そのとき気持ちのいいこと? そのときの自己満足?、そんなものと思っていたのではないと思いたいが…。
恋愛の持つ最大のメリットは、お互いに成長し合えること。
つまり、関わった相手がより魅力的になること。
自分が不自由になっても、相手をどこまでも自由にさせること。
それには、ウソなどついているヒマなどないほど、本気であること。
どちらにしても、本気に人を見つめれば、イヤでもウソを感じると思わないか?
何より、いつも本気で目を見開くことが、恋愛の絶対条件だと思うが…。
そのときの孤独感、空虚感からだけでは、目を閉じてしまっては恋愛ができないと思わないか?
どうあれ、2人の若い女性のたった一度の人生が、こんな粗末な三流ポン引きクソッタレによって寸断されてしまうのが、今の日本の実情なのでは?
You could find out the lie of the partner naturally if you keep open your eyes seriously(本気で目を開いていれば、自然に相手のウソを見破れる)!